2006年04月30日

新聞は、自らを糺せるか。

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乱気流(上・下)
著者:高杉 良(講談社)1,700円(上・下巻とも)

 日本経済新聞社の社内に噴出する問題点、バブル経済からその崩壊までの「失われた10年」を著者が丹念に取材を重ね、巨大化した新聞産業に一石を投じた小説。

 主人公の倉本和繁を介して、1988年から2004年までの日本経済の流れが分かりやすく記されている。リクルート事件やイトマン事件、山一證券等の経営破たん、大銀行の合併劇、竹中平蔵の影響力…。そして巨大新聞社長の汚職が判明し…。
 新聞業界では正論を唱える人間が「異端児」扱いされてしまう変わった世界。横柄な取材方法の実情や偉ぶる新聞記者、各新聞社間での「抜いた、抜かれた」にエネルギーを注ぎ、新聞協会賞を勲章とする体質など、新聞業界の裏側が主人公の視点を介して伝わってくる。

 かなりの長編だが、それぞれの出来事について掲載された新聞記事も引用されているので「当時を振り返る」テキストとしても十分活用できる一冊だ。

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2006年03月22日

合理化に精を出した結果、読者を失った地方紙

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マスコミ黒書
著者:日本ジャーナリスト会議(労働旬報社)480円

 1968年初版発行。サブタイトルが「マスコミの黒い現実を告発する」とあるように戦後から60年安保までの日本のマスコミが伝えてきた真実とは何か?を検証する告発本。国民の知らないところで真実の情報が消されている様を古在由重(哲学者)、城戸又一(大学教授)、塩田庄兵衛(大学教授)の3氏を中心として、新聞、放送、出版などマスコミ全般に渡るマスコミ労働者の苦悩と歴史とそのメカニズムに触れながら、商業化したジャーナリズムの本質を追求している。

 「真実の報道を通じて新聞を全国民のものとする努力は、いま新聞労働者の日常の活動とならなければならない。新聞を通じて戦争の危機を防ぎ、平和と民主主義を守り、国民の生活向上のために現在の新聞労働者が果たすべき責任は重大であり、われわれに対する国民の期待は極めて強い。われわれは新聞を独占資本が国民を収奪する道具としていることに抵抗しなければならない。われわれは日常報道するどんなに小さな記事、写真もそのまま国民生活につながるものであることを自覚しているが、いまやこの自覚を行動に移さなければならない。記者編集者の一人一人から、工場・発送の一人一人まですべての新聞労働者が『真実の報道を通じて新聞を国民のものにする闘い』に意識的また組織的に取り組まねばならない」。新聞労連が1955年に開催した第6回定期大会の運動方針である。また、1957年10月には「新聞を国民のものにするたたかい」をスローガンに第1回新聞研究集会が開かれている。報道の民主化には労働組合が大きく関わってきた。利益追求のために真実を捻じ曲げる経営側と闘ってきたからこそ、読者に支持をされ「紙面の信頼」を得てきたーと続く。

 販売問題にも触れている。1950年新聞販売網の「自由競争」が再開される。日本の独占資本は全国的な規模の大新聞の復活を必要としていた。大全国紙はそれまでの共販制をとっていた販売制度をやめて、専売制の復活を強行して流通過程の支配に乗り出した。この中で、用紙統制と共販制に依存していた新興紙の大部分は大資本に吸収されるか、崩壊させられるかしていった。そのため、新聞の販売拡張競争はすさまじい激しさをみせた。販売地域の“縄張り”をめぐって販売店がヤクザの出入りもどきの争いを各地に展開した。販売拡張員は新規購読者の開拓、他紙購読者の横取りのために、人権を無視した勧誘競争を強いられた。
 販売拡張競争は新聞産業の高度成長の中で、その後さらに醜悪化している。1959年春の大手3社の北海道進出時は気狂いじみた事態が発生し「北海道進出では1部1万円の拡張経費を使った」(読売新聞・務台専務)

 大全国紙の独占強化の中で、地方紙は地域独占資本と結びつきながら市場防御に専心している。そして何よりも中央紙による侵略に戦々恐々としながら、地場資本との橋渡しをする”政界人”に貢いでいる。また記事の多くを通信社の配信記事にあおぎながら合理化を進めている。合理化に精を出しすぎたため、取材能力を失って、その見返りに読者を失っている例も少なくない―と分析している。

 現在、見直しが検討されている特殊指定の問題は、このような過去の実態があって制定されたもの。規制がなければ「大資本に飲み込まれる」ということは歴史が実証している。
 資本主義経済が立ち行かなくなってきている昨今、0.4%の人間が70%の金を掴む構図にさらに拍車をかけるのが米国主導の規制緩和政策であることに間違いは無い。その中で、新聞の規制緩和は単に情報伝達方法のあり方などという視点ではなく、言論機関の縮小という観点で議論しなければならないと思う。
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2006年03月19日

「推進」中日新聞経営側と闘い抜いた東京新聞労働組合の歴史

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年々歳々五月の空の如く―東京新聞争議の十年―
著者:東京新聞労働組合(民衆社)980円

 第二次世界大戦敗戦後、言論統制を強いられてきた新聞社にも民主化が訪れ、労働組合が旗揚げられた。しかし、その後、レッドパージ、60年安保闘争などにより新聞労働組合の運動も経営側による弱体化工作を受け、しだいに企業内労働組合活動へとその道を辿っていく。
 しかし、その中でも東京新聞労働組合は中日新聞社による弾圧に屈せず、闘い抜いた東京新聞労組の歴史書

 1963年11月20日の東京新聞社は臨時株主総会を開き中日新聞社との業務提携が承認される。そこから中日新聞社の経営陣と東京新聞に勤める組合員との熾烈な闘いが繰り広げられる。中日から来た鈴木充副社長は組合敵視の労務政策を展開し、分派育成工作(第二組合立ち上げに協力)、スト対策で暴力団まで駆り出しロックアウトを強行、機動隊の導入など…組合への弾圧は非常極まりない。

 その後、東京新聞労組を脱退しない従業員に対して、昇給昇格などの差別や配置転換が行われる。そのすべてにおいて粘り強く闘った組合側に労働委員会も裁判所も組合勝利の判決を下したが、中日新聞社に営業譲渡をされた時点で500名いた組合員は無法な組合攻撃によって124名にまで減少せざるをえない想像を絶する闘いであったのだ。

 東京新聞労働組合は、今もなお中日新聞社側と争議を抱えている。今後もその闘いの歴史は、機関紙「推進」に残されていくだろう。

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2006年03月10日

ブログは新聞を殺すのか

 書籍というより週刊誌の紹介を!
 勤める会社で取り扱っている「ニューズウイーク(日本版)」を定期購読しているのですが、昨日届いた3・15号の特集は「ブログは新聞を殺すのか」。時事通信の湯川さんが書いた「ネットは新聞を殺すのか」のパクリ?と興味津々ページをめくってみました。
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 ネットの急速な進化が名門ニューヨークタイムズをも存亡の危機に。激動の最前線アメリカからニューメディアの未来について「ブログは新聞を殺すのか」、「紙のニュースが燃え尽きる日」、「市民メディアの夜明けが来る」の3部構成で報告されています。
 新聞の王座を脅かすブログと巨大ポータル。アメリカの日刊紙の発行部数は80年代からその落ち込みに歯止めがかからず廃刊する地方紙も多いーとデータをもとに分析。「EPIC2014」の説明も掲載されています。
「ニュースの価値判断が新聞の未来を左右する」と新聞の可能性について触れている箇所を引用します。

「新聞には関心の異なる多くの読者の欲求に応えなくてはならないというハンディもある。テーマごとに細かく分かれているニュースサイトやブログには、そうした悩みはない。自分の興味ある分野のニュースだけ表示したり、電子メールで送ってもらうようにすることも簡単だ。だたし、すべての読者がそれを求めているかどうかはわからない。自分が知りたいことより、他の人々が何を知っているかを知りたいからではないか。新聞の未来は、紙のままであれ電子化するのであれ、そうしたニュースの価値を判断するメディアとしての存在意義をどれだけ認めてもらえるかにかかっている」

「読み手同士の無限の対話を可能にするブログは、民主主義に欠かせない自由な議論を促すという点で、新聞にとってこれまでで最も手ごわいライバルかもしれない。逆に主観的な意見にこそ価値があるブログの普及は、客観性を武器とする新聞の必要性を読者に再認識してもらうチャンスかもしれない」

 日本とアメリカでは歴史も文化も習慣性も違いますが、ネットの普及と新聞離れをアメリカ事情と同じに扱ってはいけないと思います。宅配網にあぐらをかいて「読者から離れていった」日本の新聞。復活をかけて紙面内容の工夫、販売の正常化に早急に取り組むべきだと思います。
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2006年02月27日

反省の上に立って「二度と戦争のためにペンを執らない、輪転機を回さない」ことを誓おう

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知識人・言論弾圧の記録
著者 黒田 秀俊(白石書店)1,500円

 日中戦争から太平洋戦争までの「態勢の右傾向化と知識人への弾圧、言論統制」について、日本のジャーナリズムの反省と現在の平和憲法下における言論の自由の大切さを訴える1冊。1976年の発行。
 桐生悠々の論説に対する弾圧や「世界文化」の中井正一新村猛、真下信一、ねず・まさし、久野収、和田洋一らの検挙などの経緯が書かれている。軍に対する批判は統帥権の干犯になり、いっさい「問答無用」であった。昭和に入って言論、報道の自由に対する制限が拡大していく。

 新聞も結果的に大本営発表を垂れ流し、戦争を賛美したとのだが、戦時中は軍部や官僚がナチスばりの統制を真似て新聞を政府の手に取り上げようとの企てに抗している。1940年には「新聞一元会社案」を持ち出してくる。内容は@現存新聞社の社屋、土地、機会など、一切の有体財産を営業成績その他の総合評価によって新聞共同会社に帰属A新聞は共同会社より有体財産を借り受け、会社の任命する社員によって新聞を発行するB通信はドイツのDNBにならい、すべて同盟通信社より提供する―というもの。これには朝日、毎日、読売が猛反発し、政府も軍も撤回する。

 新聞社も新聞用紙の配給確保のため、翌1941年に社団法人日本新聞連盟(田中会長)を発足させ、政府から情報局長など要職に迎える。連盟の事業は@言論報道の統制に関して政府に対する協力A新聞の編集ならびに経営の改善に関する調査B新聞用紙その他資材の割当調整―を掲げている。各新聞者の入・退会は自由であったが、資材の割当に影響するため全国の新聞は否応なく加盟させられる。用紙を含む資材の配給と共販制度、広告統制は大新聞にとっては少なからぬ犠牲であったが、地方紙にとっては大きな恩恵だった。理由は、自由競争が続けば用紙はもとより新聞発行資材の欠乏によって地方紙は発行不能に陥ったかもしれないし、共販制度により大新聞の地方侵略を阻止し、広告統制も地方紙の収入を一応安定させたからだ。

 つぎに政府が出してきたのが「一県一紙制と新聞一元会社案」である。狙いは全国新聞統制会社の設立にあったとしている。連盟の理事会では地方紙6社はいずれも賛成。中央紙では報知と国民が賛成だったが、朝日、毎日、読売は反対を表明した。理事会はまとまるわけもなく打ち切り。小委員会で具体案を作成することになるが、新聞社側を完全にシャットアウトされる。読売の正力氏が「これが通れば新聞の自由はなくなる」と最も抵抗したといわれている。しかし、その政府の共同会社案も反対した三紙が廃止に持ち込んだのだ。ただし、理事会では以下の田中会長裁定した案を無条件で承認。政府もそれを採択(新聞事業令の公布)することになる。@新聞社はすべての法人組織とし、その株式または出資は社内従業員の保有に限定するA新聞経営には適正利潤を認め、その配当は一般国策会社並みとするB新聞発行はすべて許可主義とし、その首脳者には一定の適確条件を設けるとともに、他の営利事業との兼業を許さないC社団法人日本新聞連盟を強化して統制機関とし、官庁権限もそれに委譲して新聞の統制整理を助長するD別に新聞共同株式会社を設立し、統制機関運営上の財政処理機関とするE新聞を国家の公器たらしめるとともに、その個性と特色を尊重し、その創意と経験を活用せしめ、用紙その他の資材供給に便宜を与え、租税公課の負担につき特別優遇を与えるF以上の実行にあたっては法令制定の要あるもの少なからず、政府のしかるべき措置を期待する―著者は三紙が足並みをそろえて抵抗したことの成果と記している。

 1942年には内閣の告示で全国104の日刊紙が新聞会会員として指定され、2月5日に日本新聞会は発足する。新聞共同会社案に代わって出現した日本新聞会は中央も地方も大多数の新聞が“好まぬ相手との合同を強いられ、題号を変え、組織をあらためて”再出発しなければならなかった。東京では「報知」が「読売」に、「国民」が「都」に、「日刊工業」が「中外商業」に合併され、「読売報知」、「東京新聞」、「日本産業経済新聞」に看板を塗りかえた。大阪は「大阪時事」と群小新聞を統合した「夕刊大阪」が合併して「大阪新聞」に、同じく業界紙を統合した「日本工業」が「産業経済」と改題した。名古屋では、多年競合しあっていた「新愛知」と「名古屋新聞」が合併して「中部日本新聞」となり、「福岡日日」と「九州日報」が一緒になって「西日本新聞」、「北海タイムス」以下北海道の全新聞が統合されて「北海道新聞」となり、各府県とも、すべて一県一紙に整理された。この結果、それまで104あった新聞社の数は54社になった。これを強行したのが特高警察と新聞会であったと…著者の解説は続く。

 戦時中の言論統制の歴史をみると新聞もさまざまな弾圧を受けながらも闘ってきた。しかし、権力には立ち向かえなかったのだろう。反省の上に立って「二度と戦争のためにペンを執らない、輪転機は回さない」ことを新聞人は誓うべきだ。
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2006年02月11日

批判というものは、傷を負う覚悟でないとできない

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新聞が衰退するとき
著者 黒田 清(文芸春秋)1,000円

 故黒田清氏が、1987年1月10日付けで読売新聞社を退社した同年8月に発刊された。「黒田ジャーナル」を創設し、戦争や差別社会に反対する視線でミニコミ紙を発行するなど草の根ジャーナリストとして活動を続け、2000年7月23日に永眠するまで「記者魂」を貫いた。
 その著者が、読売新聞(マスコミ)を去って、「マスコミ生活35年間の卒業論文」のつもりで書いたという1冊。

 読売新聞社に記者として在籍した35年間、黒田氏率いる「黒田軍団」の実績は凄まじいものだ。しかし、ナベツネは黒田氏を「目の上のたんこぶ」と取材現場から追いやった。当時、中曽根首相とべったりの読売新聞東京本社。同じ読売でも大阪本社の「黒田軍団」が政府を叩きや警察を叩く“まともな”紙面展開が気に入らなかったのだろう。
 黒田氏は「読者を大事にする新聞社とは、新聞記者の一人ひとりを大切にする新聞社なのである」と述べ、新聞社では記者の方が社長より“偉い”のだと言い切る。そんな黒田氏が読売新聞社を去る理由はナベツネとの確執に違いない。黒田氏は続ける「記者を大事にできない組織、社長の意見以外の意見が言えない組織は、社会をよくするために存在する新聞社ではなく、活字で埋まった新聞を発行している会社にすぎない。またそういう会社で働くものは、新聞記者ではなく、新聞社の社員であるにすぎない」と。読売新聞に「新聞が衰退するとき」を感じて、船(大新聞社)が沈没する前に逃げ出すネズミのようにマスコミから去った―とあとがきに記しているが、やはりジャーナリズムは大組織においては抹殺されてしまうのだろうか。

 黒田氏とは13年ほど前に仙台で開催されたマスコミフォーラムへ講師として来ていただいた時に話をしたことがある。夜の飲み会にも付き合ってもらった。こちらは販売労働者なので、読売新聞の不正常販売について質問すると、「社内でも水増し部数について、みんな黙認しよる。言えば(正そうとすれば)飛ばされる。読売はそんな会社や!」と大きな声で話してくれたことを今でも忘れない。
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2006年02月09日

売れる見出し? 新聞紙面は勢いじゃないのだ

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「虚報」の構造
著者 真神 博(文芸春秋)1,300円

 新聞はなぜミスリードをするのか?
 昨年は、大分虚偽報道が相次いだ。おおよそ記者の処分で、その捏造記事(虚報)をご破算にする新聞社なのだが、その根底にある「いいや書いてしまおう」という発想は何故?生まれるのだろうか。

 なだしおー第一富士丸衝突事件や戸塚ヨットスクールの集団リンチ事件では、虚偽の証言を鵜呑みにした新聞記者の実態と真実追求を怠った新聞社の取材体制の足りなさを指摘。ベトナムの二重体児(ベトちゃん・ドクちゃん)を救え!というマスコミのキャンペーンを実は政治家が利用していたことなどを追及。さらに、強盗を追走して逆に刺殺された大学生の報道をめぐって、実は「死因はいくつもの病院をたらい回しにされたことによる出血多量によるもの」であることが判明。事件を美談化するマスコミの報道姿勢を検証している。

 この書籍は17年前に書かれたものだが、その当時から「抜いた・抜かれた」という速報的な紙面競争と、より売れる紙面(見出し)、読者に感動を与えられる紙面を勝手な思い込みで書いた記者の穿った発想は続いている。
 やはり、新聞が読者から離れていったのだろう…
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2006年01月27日

もう知らぬふりできない 新聞のブラックボックス

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新聞があぶない
著者 黒藪 哲哉(花伝社)1,785円

 以前、所属する労働組合の講演会にも参加していただいた著者が、新聞業界内のブラックボックスとして存在する「押し紙」問題など実態とその“からくり”について書き記された「今月20日に出版されたばかり」の新刊だ。

 新聞社の経営構造やABC部数の問題、さらに新聞社と販売店の契約内容(片務契約)などルポルタージュらしく徹底した現場取材にもとづいた数字的な根拠が伺える。また、日本新聞販売協会の政府工作にもメスを入れ、日販協内にある政治連盟の動きなども報告されている。
 このような問題は長きに渡り新聞業界内に蔓延る問題だが、この問題については、ほとんどの新聞人が目をそらすのだ。自らの問題を追求そして改善できずに「何がジャーナリズムだ」という感情がこみ上げてくる。真のジャーナリストは組織内(新聞社)には居られないのだろうか…。

 著者は私論はこうだ。最近の新聞が右傾化している原因は、新聞経営者の「自らの新聞社経営の失策」が大きく影響しているからだ―と。

 読者がいない新聞=「押し紙」が、日刊紙の総発行部数の3割に達し、読売新聞と同じ1千万部となったのだ。
 新聞人はもう知らぬふりできない
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2006年01月25日

ライブドアはリクルートのように復活できるか

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リクルートという奇跡
著者 藤原 和博(文春文庫)514円

 ライブドアへの強制捜査、ホリエモンの逮捕社長辞任… 
ライブドアの株価操作、粉飾決算など一連の事件に関する報道は少々加熱しすぎだと感じる。以前、辺見庸さんの講演を聴いたときに「マスコミは事実よりも真実を伝える役割がある」という言葉が印象的だったことを思い出す。事件の真実は「人の心は金で買える」というマネーゲーム?でのし上がった若手IT企業家ホリエモンに対する「手法」だけが事件の真実なのだろうか…。

 というわけで、以前にも経営陣の不始末で企業が大打撃を喰らった事件があった。国会議員をも巻き込んだリクルート事件。著者は25年間リクルートの社員として、会社の盛衰を見てきた。幾度かの危機を乗り越えながら再生したリクルートは、リクルート事件、リクルートコスモスの大赤字、ダイエーによる吸収などを乗り越えてきた。そのような試練にもめげずに自力再生できたのは、リクルートマンシップという従業員のエネルギーだといっても過言ではない。それもリクルートはアルバイトが企業を動かしているというのだから普通の縦割り組織に甘んじている体質は持ち合わせていないのだ。常にフレッシュな職場環境が仕事のペースを高め、そして速めているのだという。最強の営業力にはうなづける。

 リクルート社も常に最先端のビジネスシーンに登場してくるが、やはり働く従業員のモチベーションが企業活動を支えているから成り立っているのだ。ワンマン経営者の力だけでは、一時大きく成長するかも知れないが、長くは続かないのである。
 ライブドアの従業員も会社の危機によって、不安定な生活を余儀なくされるかも知れない。しかし、リクルートの従業員ようなモチベーションがあれば危機は乗り越えられる。ライブドアの再生を期待したい。
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2006年01月19日

借金大国ニッポン すべてがご破算にされる日は近い

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最後の2年
著者 浅井 隆(第二海援隊)1,400円

 日本の財政はすでに破綻している。著者は叫ぶ「日本の借金構造は100年経っても返せない」と。
 2005年に発行されたこの本の題名「最後の2年」の意味は、2007年から国家破産時代が到来する前に財産を海外(外貨)へ移しておくことを指南している。そして、その裏づけが理論的にしるされているのだ。
 このような現状をなぜマスコミ(特に新聞は)が報じないのか?大きな疑問だが、戻るあてのない国債の全面広告を掲載する新聞社が「国債は危険である」とは言えないのだろう。その状況を知らないお年寄りなどは「国が発行しているものだから」と言われるがままに国債を買わされている。酷いものだ。
 先日の新聞各紙に「個人向け国債販売が7兆円超す(2005年度は過去最高)」という見出しで、昨年度の個人向け国債の販売額が過去最高であったことが報じられている。前年度より6.6%増え、7兆円を超えたそうだ。そして、著者の指摘と相反する内容が紙面に掲載されており「(国債販売が過去最高になった背景は)相対的に利回りが高い安全な資産として人気が高まっているためで、満期を迎えた郵便局の定額貯金資金なども流入しているもようだ。国債の残高に占める個人の保有割合は05年度末には4%を超える見通しで、10%程度が主流の欧米に近づきつつある」と大手紙のみならず、通信社を経由して地方紙も大々的に報じているのだ。果たしてマスコミ(新聞)と著者の主張とどちらが正しいのか?

 すでにトヨタやキャノンは本社を外国に移す計画を立てており、個人資産も海外へと流れている様を報告している。さらにインフレ時代への突入により「徳政令」(いわゆる預金封鎖)が起きる可能性を示唆している。著者は早くとも2010年から2012年(IMFが乗り込んできた場合は2015年から2020年だという)の間にハイパーインフレが引き起こり、大混乱を招くと述べている。
 米国の状況についても詳細に報告されており、日本との関係(どちらかが破綻すると連鎖する)についても記されている。
 
 このような借金大国に至った責任は誰が取り、そのツケは誰が払うのだろうか…
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2006年01月11日

商品が売れるのは営業マンの力ではない

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やっぱり変だよ日本の営業
著者 宋文州(日経BP企画)1,500円

 これまで、さまざまなビジネス書を読んできたが、「右肩上がり」の時代に登場してきたビジネス書とは全く異なった視点で「売り上げの減を営業マンのせい」にしている経営者の考えを改めさせる指南書。
 戦後の日本の高度成長は、休まず勤労に励んだ製造業労働者の功績が大きい。その後、家電製品などを中心に需要の拡大とともに企業の営業活動が定着してきた。トップ営業マンの「美談」や成功事例を真似し、「頑張れば何とかなる」といった精神論が営業マンに浸透し続けてきた。いやそれが当たり前であり、常識だと教えられてきたのだ。経営者も市場や消費者動向と向き合わず、営業マンの努力による「目標達成」が経営を支えていると信じてきた。しかし、世界でも、日本でもセールスの力に頼って成長し続けた企業はない。

著者の言葉からこれまでの営業(精神論)とこれからの営業を感じる一説を紹介する。
●結果にしか興味がない営業管理をしていると、どんな結果が生まれるでしょうか。
 まず、社員は本当の情報をあげなくなります。どうせ結果が悪いと怒られるだけですから、あげても意味がありません。
 次に、管理職は怠慢になります。根性を入れてやれば何とかなると思い込み、戦法・戦術の研究を怠り、効率悪化を放置します。
 最後に、経営者は傲慢になります。モノが売れるかどうかは営業マンのやる気次第だと信じ込んで、自社の事業や製品の社会的意味を問わなくなり、顧客の気持ちを無視してしまいます。
 また、結果にしか興味がない営業管理をしていると、どんな企業になるでしょうか。
 まず社員は、モチベーションが下がるでしょう。会社側は戦略、事業と仕組みについて努力しないのに、社員には犠牲を強いるからです。
 次に人材が育ちません。精神論信者が増え、管理職は権威と権限にしがみつき、井の中の蛙になるからです。
 最後に、経営者は裸の王様になります。過去の成功を人格やカリスマ性に結びつけ、その威厳を振りかざして組織を追い立て、営業現場や顧客の中で起きている小さな変化を読み取ろうとしなくなるからです。
●売り上げは「天時、地利、人和」(孫子の兵法)の総合結果です。決して営業マンの努力だけではありません。
 ビジネスで言えば、時代の流れに沿っているかどうかです。時代に合わない商品はいくら頑張って売っても淘汰される時間を先伸ばしにしているだけであり、しょせん消えてしまいます。
 戦いに勝つために次に重要なのは「地」の利です。これはビジネスでいえばマーケティングです。ビジネスの「地」はもはや目に見える地理的な「地」ではなく、商品の存在価値を示すマーケットにおける位置の「地」です。時代に合うビジネスであっても皆が狙っているので、自社の身の丈に合うかどうかも研究せず、手当たり次第にやってしまうと必ず戦いに敗れてしまいます。
 三番目に重要なのは、人の「和」です。この人の和を「組織力」「団結力」と解釈したがる人は多いのですが、実は「和」にはもっと広い意味が含まれています。「和」には「集中」と「共有」という意味もあります。したがって、今の社会環境下では「理念の共有」と「情報の共有」と解釈すべきでしょう。
 つまり、時代に沿ったビジネスを行い、市場での位置を明確に打ち出し、全社レベルの理念共有と情報共有を実現している企業こそが勝つ企業です。
 勝つための条件を無視し、負けた理由を営業だけに求める経営は怠慢であり、営業の本質を知らないのです。営業とは「天時、地利、人和」の集大成であり、企業活動そのものです。営業は営業部門だけの仕事であると思う企業は、本当の営業活動をしていません。それで成り立ってきた企業は、営業の要らない時代を生き抜いてきた企業か、営業の要らない商品を作ってきた企業です。
●営業の本質は「売る」ことではなく「知る」ことにあります。「今、何が起きているか」、「何を提供売れば顧客が得をするか」を知ることが営業の本質です。

著者は訴える。
・われわれはもっと売らないことの重要性を認識すべきです。
・われわれはもっと撤退することの重要性を認識すべきです。
・われわれはもっと売り上げから利益にシフトすべきです。

そして、
・押し売りは日本の経済を蝕んできた。
・過剰サービスの偽善は、営業の効率を悪くしてきた。
・モノ作りへの過剰意識は、日本企業の営業力を弱くしてきた。
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2006年01月09日

時の流れに身を任せていて本当に…良いのですか?

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子会社は叫ぶ
著者 島本 滋子(筑摩書房)1,800円

 ノンフィクションライターである著者が、グローバリズムの名のもとに進められる規制緩和・構造改革・企業再編成をキーワードに、強引な改革の裏側ですべてのしわ寄せが「子会社」にあてがわれている実態を提起したルポルタージュ作品。「市場原理」=「人間の使い捨て」がまかり通る日本社会へ警笛を鳴らした1冊。

 厚生労働大臣の諮問機関が「低コスト体質への転換」を提言し、それを受けた航空会社が「持続的な低コスト体制の実現」を子会社に求めた。親会社の要請を受けた子会社は、孫請けへの業務委託打ち切り、労働者は時間給のアルバイトに置き換えられた。いま、雇用政策の基調となっている規制緩和路線。その先駆けとなった航空業界では「人間の使い捨て」と「安全の切り下げ」が同時進行している実態を暴いている。

 1993年、自民党単独政権が崩壊し、細川連立政権が誕生した。「生活者大国の実現」を掲げた政権は構造改革に着手し、その改革は2001年に生まれた小泉政権に受け継がれている。しかし、改革の美名を一種の目くらましとして、着々と作られてきたものがある。それは「柔軟な労働市場」と呼ばれるものである。柔軟とは何のことなのか?雇用の流動化とは、働く人が流れ動くこと。それを経営の立場から見れば「硬直した規制に縛られることなく、自由に人を選び、自由に人を捨てられる市場」すなわち「柔軟な労働市場」とはこういうことだ。このような政策が雇用の安心を確保すると位置づけたのが、1998年当時の小渕首相の諮問機関「経済戦略会議」であり、議長は元アサヒビール社長の樋口廣太郎氏だ。この答申を皮切りに「労働者派遣法」「職業安定法」の緩和、持ち株会社を作りやすくした「産業再生法」も成立、翌年には「国際会計基準」も導入された。まさしく米国の後追いである。
 このような雇用形態の柔軟化は、労働組合の組織率をも引き下げる結果となる。通産省の通商調査室の「Q&Aグローバル経済と日本の針路」には、「労働組合の組織率が下がれば、経済は繁栄する」と明記してあるのだ。著者は「労働組合の存在意義は『賃上げ』よりむしろ、雇用労働者が多数を占める社会で『言論の自由』を守ることにあると思っている。会社に逆らえば簡単にクビを切られる。生活のためには理不尽があっても黙っていなければならない。そういう日常生活を強いられる人が増えて行けば、本当にこの日本で『言論の自由が脅かされる』のではないか」と警笛を鳴らす。

 会社分割制度(商法改正により2001年4月施行)にも触れ、それぞれの事業部門を「子会社」として切り離すことが簡単になる同制度は、「持ち株会社解禁」とセットになっており、いずれ企業に働く人達は「持ち株会社」に支配され「子会社の社員」になってもおかしくないのだ。いまのIT企業の株の買収劇そのものである。
 「子会社へ転籍」というのが新聞社でも起こっている。印刷部門を別会社化してその労働者を転籍させるというものだ。いま、下野新聞社(栃木県)が組合への合意も得ずに今年4月から別会社で印刷を始めるという。下野新聞労組は闘争体制に入り、裁判所への申し立てなどを行っている。
 転籍とは現在勤めている会社をいったん退職して別の会社へ籍を移すことだ。これまでは民法の規定で「本人の同意」が必要だったが、このような規制緩和、会社分割などでは、社員を転籍させることも自由自在になってしまった。だから、労働組合の役割が重要であり、労使で交わす労働協約が誰のためにあるのかを再認識する必要がある。「時の流れ…」に便乗して運動を縮小してしまっては、政府(官僚)の思うつぼなのだ。

 金子勝氏(慶応義塾大教授)と著者との対談で、いま日本の政府(官僚)が米国主導の下に進めている規制緩和の政策に一石を投じている。
「市場原理主義はリベラルでしょうか?民主主義とは多元的な価値を認めることです。しかし、市場原理主義は『効率』という単一の価値しか認めない。その意味ではむしろファシズムに通じるものさえあるかもしれない。いまの政策を続ければ、社会不安が起きて、日本は治安さえ不安な社会になりかねない。僕が本当に危機を感じているのは、大恐慌は結局、戦争でしか突破できなかったんです。いま、似た種類のことが起きているのかもしれない、スローモーションで…」
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2005年12月26日

無限の可能性を秘める新聞販売店

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ニューメディア時代に新聞販売店の明日はあるか?
著者 佐野 進(プレスセンター社)3,000円

 毎日新聞の販売店を経営する著者が1983年に発行した「新聞の将来」、「販売店が取り組んでおくべきこと」などの指南書。
 当時は「ニューメディア時代の到来」との言葉が流行し、新聞の個別宅配という情報伝達手段が電波やケーブルを使って読者に送られるシステムへの脅威が業界内外で大きな話題になった。文字多重放送、各家庭へのファックス普及、キャプテンシステムやCATVなど電波と有線(エレクトロニクス媒体)による「情報の速報性」への脅威だったのだろう。しかし、現代では速報性だけではなく、ネット(ブログ)による情報検索や双方向性などネットメディアからの影響は新聞の役割自体にまで及んでいる。

 販売正常化の問題も販売店の経営者らしく「なぜ正常化が出来ないのか」が詳しく書いてある。「部数の過当競争を続けていれば、新聞販売店の明日はない」と断言し、1964年4月に告示された「特殊指定」に関連して、業界に正常な販売競争(正常な競争とは価格や景品ではない)を公取委が求めた背景なども詳しく記されている。
 著者は「無限の可能性を秘める販売店」を実践していくのは「自分たち販売労働者だ」と述べ、発行本社から自立できないことを発行本社のせいや取引関係のせい、社会的地位のせいにするなと檄を飛ばす。「新聞販売業界を変えたい」という情熱に満ちた話は自分と重なり感銘する。販売店従業員の労働条件や社会的地位の向上に取り組み、優秀な人材確保をして行かなければならないと述べている。また、この時代に販売店が持つ顧客情報(データベース)の活用や、宅配事業へ進出すべき―などの指南は的確であり、20年経った現在に生かされている。

 時代は「ユビキタス社会」。新聞の役割はきちんと継続させながら、媒体が多様化する時代に新聞産業の将来を販売店労働者も「誰かのせい」にせず、行動していかなければならない。販売店の機能が「宝の持ち腐れ」とならないように・・・。
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2005年12月22日

再販制度の本質とその背景を見極める必要がある

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出版再販−書籍・雑誌・新聞の将来は?−
著者 伊従 寛(講談社)2,000円

 1995年から繰り広げられた出版物再販制度の議論に対して、公正取引委員会の委員として議論に加わっていた著者が、再販制度に関するさまざまな報告書や各国の出版再販制の現状などを詳しく解説している。
 一般商品を「物質文明」の所産という定義のもと、出版物は人間の独創的で多様な「精神文化」の担い手であるという違いを「消費者利益」の見地から『出版物再販制は必要』との理論で構築されている。

 著作物の再販制度が議論される背景には、日米構造問題協議(SII)で、日米間で独禁法への強化に合意したことが発端だ。1990年6月にまとめられた最終報告書の内容は@10年間に430兆円の公共投資を国民にはかるA高価な土地問題を解決するB流通での自由競争を促進するC独占禁止法を強化するなど。アメリカ側の措置としては@財政赤字削減A過度の規制の緩和B長期的に企業経営を促進するC輸出規制の緩和など―。要は日米の貿易赤字解消のためにアメリカが日本の市場経済に乗り出してくるのに困難な規制を取り払うことが目的であって、アメリカ型利益追求の競争社会を導入しようとする目論見なのだ。政府も「消費者の利益」やら「日本的市場の開放」を国民に煽り、価格破壊という言葉が流行った反面、失業率の増加や労働賃金の減少などが大問題となったのだ。

 1995年に公取委の「政府規制等と競争政策に関する研究会」(座長=鶴田俊正専修大学教授)の下部機関である「再販制度問題検討小委員会」(座長=金子晃慶応大学教授)が中間報告を公表したことから業界内外でさまざまな議論が交わされた。新聞については、中間報告書の第5部で「国民生活にとって欠かせない情報を購読者に対して、毎日、迅速に、しかも同一紙・全国同一価格という形で広く販売されること、すなわち戸別配達と関連があるとの指摘もなされている」として、新聞の再反制容認の理由に挙げられたものの、戸別配達が再反制なしに維持できないものではないとの議論が浮上。理由としては戸別配達制度は広告収入や部数を拡大していく上で有効であって、再販制がなくとも戸別宅配制度が消滅することはありえないとし、一部の専売店の経営が困難になっても複合店で対処できる。また増紙のために過大な販売経費を掛けている実態の中で、宅配維持のための支出はしていないとした。しかし、著者はこの内容を「現実的ではない」と批判。再販制度は同一紙の価格競争を持ち込むことなどで、販売店の労力が増し、他の販売店とも価格競争が起こり、経営が不安定になるのは必至迅速かつ確実な宅配制度は崩壊すると明言している。

【資料集】規制緩和小委員会が打ち出した規制緩和の意見。
『新聞レベルの維持』
●販売店レベルでの値下げ競争が行われることが、直接に、発行本社の経営悪化とはつながらない●発行本社レベルの価格競争が質の低下につながるというのは市場メカニズムを否定することであり、カルテルを容認することとなる●不当廉売は、それ自体で取り締まればよく、他の産業と区別する必然性はない
『選択肢』
●再販制度は流通段階でのブランド内競争を制限しており販売店間でブランド内競争が行われることとなっても、それがすぐに新聞社の倒産にはつながらない●そもそも、競争が即、寡占化をもたらすということは、市場メカニズムを否定することになる
『戸別配達制度』
●戸別配達制度を含めた流通制度も、消費者の選択に任せればよい●国民は戸別配達制度だけを支持しているわけではない●むしろ、戸別宅配と表裏一体となった厳格なテリトリー制のために、鉄道駅以外での販売が行われにくく、月単位でのセット販売が事実上強制されることになり、消費者の自由な選択が著しく阻害されている点を重視すべき●特に、首都圏においては、首都圏新聞即売委員会が中心となってまとめた即売網領に基づき、事実上コンビニでは一般日刊新聞は販売されていない●テレビ等、他のメディアの著しい発達、情報化の進展、多くのマスメディアが厳しい競争にさらされているなかで、新聞だけを不可欠な情報媒体として再販で保護し、聖域視する必然性はない
『再販の弊害』
●新聞業界では、価格設定が同調的に行われるなど、新聞発行本社間の価格競争が必ずしも十分とは言い難く、一般消費者の利益を損なっている●再販制度や告示で新聞販売店が購買者を値引きによって勧誘することができないことにより、新聞発行本社・販売店による過大な販売促進費支出や、過大な景品付販売等、非効率な取引慣行が生じている

 内容を精査すると“現実離れをしている発想”としか言いようがなく、机上の論議では限界がある。このような発想のもとに新聞特殊指定の見直し議論がされるとしたら、一番の弱者である販売店の従業員にしわ寄せが来るのだ。著者のあとがきには、「新聞の景品付販売など多くの改善すべき問題が残されていますが、これらは再販制の問題とは別に解決すべき問題」と結んでいる。
posted by 今だけ委員長 at 12:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍紹介

2005年12月20日

ブログによって既存のマスメディア(幻想ジャーナリズム)が「炎上」される日も近い?

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ブログ・ジャーナリズム
著者 湯川鶴章・高田昌幸・藤代裕之(野良舎)1,500円

 自分もブログを始めて4カ月。著者の3名とも1回ないし2回お会いをして、話を伺ったり、酒を酌み交わしたが、この本を読んで更にそれぞれの考えの奥深さを感じた。
 第1部は「ブログ・ジャーナリズムの可能性」について、湯川氏がコーディネートして高田氏、藤代氏との対談がまとめられている。互いの考え(主張)がハッキリと記されており、対談でありがちな「妙なまとめ方」をしていないのが良い。興味本位や流行に乗って始めた初歩的ブロガー(自分も含めて)にはお勧めをしたい。
 第2部は「ブログと情報」と称し、ブロガー4氏による討論を掲載。マスメディアに対する意見やブログの役割・課題を提起しながら、「やっていて面白いことが一番」と締めくくられている。
 第3部は高田氏のブログ「ニュースの現場で考えること」の2004年12月27日〜2005年8月17日までのエントリーを掲載。巻末には著者3氏の「お勧めブログ」も載っている。一つひとつ開いてみると、それぞれのブロガーの考えが同じ目線で伝わってくる。「ブログ」発信はネット上なのだけれども「同じ目線」を読者が求めているのは間違いない。
posted by 今だけ委員長 at 11:20 | Comment(0) | TrackBack(2) | 書籍紹介

2005年12月17日

人生は山を乗り越えるたびに「信念を貫くか」、「立場を守るか」に立たされる

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クライマーズ・ハイ
著者 横山 秀夫(文芸春秋)1,650円

 今日、NHK総合で「クラーマーズ・ハイ」(主演は佐藤浩市)のドラマが前編・後編に渡って放送された。一昨年に出版された書籍を購入して、感じたとおりにドラマも争点を捉えており、久しぶりにじっくり観れたテレビドラマだった。

 書籍の内容については、1985年に起きた御巣鷹山日航機墜落事故をめぐって、地元紙の上毛新聞社に勤める新聞記者(悠木)と主人公を通じて新聞社の体質、親子・友人との絆が描かれた「勇気をもらえる」一冊。
 新聞社内の問題点もしっかり指摘されており、ジャーナリズムと新聞社経営、編集と販売という組織内での個人の葛藤が書かれている。
クライマーズ・ハイ=人生はさまざまな過去を持ち、それを乗り越えるためにまた山を登る。極限を通り過ぎると陶酔の境地を迎えまた更なる山を目指す。

 悠木デスクがスクープ記事の掲載(取材)による新聞の降版時間をめぐって、販売局長が「発行が遅れると販売店が迷惑をする」と一刀両断するシーンがある。
 その新聞(発行責任者)が読者に対して責任を持つならば販売店(宅配)は如何様にでも対応しなければならないと自分は思っている。なかなか新聞の役割や地域・読者への使命感のようなものは販売店まで浸透しづらいが、昨年起きた新潟中越地震の時に新潟日報の販売店が自分たちも被災しながら「新聞を配り続けた」という使命感を持てたーという話を聞いた。日本では新聞は配達されてひとつの商品になる。それぞれの新聞に携わる従業員が「誰のために」取材し、新聞を届けるのかという意識を共有している新聞社になりたいものだ。
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2005年12月10日

新聞を真によくするには、社会との協力が必要

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社会と新聞
著者 美土路 昌一(朝日新聞社)非売品

 朝日常識講座の第3巻として、1929年に発行された。明治から昭和初期までの新聞の価値、役割などが新聞関係法規(新聞紙法)などと照らし合わせながら、公共機関としての新聞が社会への貢献とその弊害を読者とともに「新聞研究」をするという観点で書かれている。
第1章は、社会的存在価値(報道の批判と供給・現代文化と新聞・新聞と国際関係・新聞と言論自由)。第2章は、新聞の反社会的影響(新聞の誤報記事・新聞の反道徳的方面・新聞の営利化問題)。第3章は、新聞記事の拘束(法律による拘束・日本新聞紙法の欠陥・軍事検閲と新聞・言論弾圧の三大国・新聞の自発的理論化・経営上の理論化)と綴られている。
 第1章の書き出しは「新聞のこの社会における存在の意義はこれを学問的に説明するよりも、まず実際問題として新聞がこの社会から消滅した場合を考えて見れば、それが何よりも一番直裁に総てを説明する」。また、第2章の「新聞の営利化問題」では、新聞社の営利化、商売本意の堕落ということは、他の反社会的影響とともに喧しく論議される新聞の一項目となっている。新聞は社会の木鐸といい、警世の機関というのは当たらぬ。その経営を度外視した新聞は現在においては、それが何かの団体あるいは組合または他の大組織の期間新聞でない限り、存立することは不可能である。然しながら、新聞を以って全然商品なりというのも又当たらぬ。いうまでもなく、その新聞紙の性質が公共的の機関であり社会文化と密接重大なる影響を考えるときにおいて、全然これを以って他の産業、商品と同一視することは極めて無謀な言であり、又最も危険な解釈である。然らば、新聞の営業化、商品化と云う事は如何なることになるであろう。実際現在において新聞紙の営利化と云うことは争われぬ事実である。今日の新聞事業は、昔のそれに比して実に隔世の感がある。前にも屡々述べた如くその新聞の報道戦は、社会の複雑を加わるにつれて、次代にその範囲を広むると同時に、その活動の機関は日に日に整頓し拡大するのは当然である。而して、激甚なる競争の結果は連日のニュース報道にして他紙に遅れるような場合ありとすれば、何人も最早やその新聞を手にせざるに至ったのはいうまでもない」。
 朝日新聞発行らしく、無代紙や赤紙などには触れず「報道における他紙との競争」に軸をおいた提起に止まっている。

 当時の書籍は「ルビ文字」が入っていても書き写すだけでも難しい。
posted by 今だけ委員長 at 16:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍紹介

2005年12月08日

日曜夕刊廃止運動の歴史「小休符があるからいい音楽ができる」

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日曜夕刊がなくなった日
著者 田沢 新吉(講談社出版)1,500円

 現在のような情報産業が発展していない時期、新聞は市民への情報伝達に欠かせないものだった。現在は日曜・祝日、そして年末年始にかけて休刊になる夕刊だが、日刊紙の夕刊は1965年頃までは日曜日も発行され、販売店従業員はそれこそ362日(当時の夕刊休刊日は元旦、こどもの日、秋分の日の3日間)朝も昼も新聞の配達をしていた。
 新聞販売店を経営する高橋政次郎氏は、東京新聞販売同業組合の組合長(第22代目)に就任後、「次の世代の人たちのために」という方針を掲げ、週休制を求めて、全逓信労働組合の中央執行委員長宝樹文雄氏(当時は郵政も日曜配達廃止運動を展開していた)に協力を仰ぐ。新聞販売店のいわば経営者と労働組合が手を取り合い、日曜夕刊廃止運動を展開した。
 日曜夕刊廃止については、新聞販売店従業員の葛藤もあった。「新聞というのは社会の公器。休まないところに新聞の意義があり、われわれは一般社会人とは違って特殊な仕事をしているという“誇り”を持って頑張らなければいけない」と言い聞かせて、当時の新聞奨学生なども学業との両立を寝る時間を割きながら配達業務に従事していた。しかし、時代は高度経済成長に後押しされ、週休制が浸透、日曜日には「本日休業」という札をぶらさげる商店が当たり前になってきた。そこで週休制を一挙に実現することは難しいから、せめて日曜日の夕刊ぐらいは休刊にして欲しいという運動が、東京組合から各地の新聞販売店へと拡大して行った。新聞協会や新聞社への要請行動の始まりである。
 運動は大きく発展したのだが、読売新聞の当時業務局長だった務台氏は「読売新聞は絶対に日曜夕刊は廃止しない。理由はいろいろあるが、要するに夕刊を休めば新聞の使命遂行に支障をきたすからだ。読者にサービスを怠ったり、不便をかけることは社会の公器として通用しない。日曜夕刊を休まなければ、労基法に違反したり人道上の問題などというのは、私からいわせれば、むしろ逆で、代配によって週休制を完全に行うようにすることの方が、より大切なことだと思う」と表明している。全国紙では朝日新聞が1965年1月からとりあえず月2回(第1、第3日曜日)の夕刊を休刊し、休刊した分の増頁は当面行わないという社告を出した。この年から北海道、中日、西日本、東京も2月から隔週日曜夕刊の廃止を発表。信濃毎日、北日本、京都は1月から日曜夕刊全廃を決定する。同年4月からは新聞協会加盟社の40社が追随し日曜夕刊問題が決着したのである。読売新聞も「新聞業界全体のために大悟一番、2月から日曜夕刊を全廃」したのは言うまでもない。
 各社の社告を見ると「雨の日も風の日も、新聞配達に従事する新聞少年や新聞販売店従業員に必要な休養を与えるために実施したものです…」という理由を掲げた。これまでの購読料改定の際も「販売店従業員のため云々」という決まり文句を新聞社は掲げるが、この日曜夕刊問題を起点にして、すべてにおいて「販売店のために」というフレーズが使われるようになったと感じる。
 最後の章では10年間続いた日曜夕刊問題の総括が記され、なぜ10年もの歳月を費やしたかの理由に@各新聞社の増紙競争A個々の新聞社の社内事情B新聞販売店の団結不足C運動の進め方の抽劣さ―をあげている。新聞販売店従業員が「人間らしい生活を勝ち取ろう」と訴えた運動の歴史を後世につないで行かなければならない。

 
 ところでいま、新聞離れに拍車が掛かっている中で、特に夕刊を購読しない世帯が増え続けている。紙面の内容だけではなく習慣性の問題だと感じる。その意味では日曜日の夕刊の復活も全く無視できないと感じている。販売店の休みは休刊日の問題ではなく、若干のゆとりある人員確保が叶えば週休2日も実現できるのである。
 


 

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2005年12月07日

大本営時代を経験した先輩ジャーナリストの指南書

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ジャーナリズム入門
著者 日本ジャーナリスト連盟(銀杏書房)160円

 1948年発行。当時のジャーナリスト連盟に加入する12名の著書をまとめた構成になっている。
 序章のジャーナリズムへの志向について、美作太郎氏(日本評論者編集局長)が寄稿し「ジャーナリズムに心を寄せる人々が、言論出版の自由という合言葉に共鳴し、民主主義の原則をこの世界で生かそうとすることは当然なことです。しかし、この場合の「自由」と「民主主義」とが、すべての当事者に勝手に無拘束にしゃべらせることを意味するのだとしたら、それは危険な形式的な理解というものでしょう。現に巣鴨にいる戦犯者たちは言論出版の自由を有つていませんが、これは日本の民主主義の現実の建て前から見て当然なことなのです」と延べ、「公正な中立という美しい口実に酔いながら自ら民主主義者を気取ることが出来ます」と提起し、「歴史と社会とに闘する、しっかりとした世界観の體得が、新しいジャーナリストのための不可欠な条件である」とまとめている。

 新聞編、出版・放送・ニュース映画編、各国の新聞編、労働組合の章にまとめられ、若き輩に先輩としての助言が詳しく綴られている。

 新聞をつくる目的では、「今日のわが国の時代に新聞が広く社会現象を断片的に報道するということは全然意味がない。第一に社会現象を細大もさらず新聞に載せうるものでないからそこには自ら取捨選択がある。今日何をして何を探るかが問題である一般的にいえば国民を民主的に啓蒙し国民生活を民主的再建の方向に導き国民大衆を一日も早く民主革命感性の方向に紙面は整理されねばならぬ(中略)深刻な問題は今日の国民の死活を制する問題であるのに興味本位の生活と離れたニュースの方に果たして国民は興味を感ずるであろうか。もし興味本位のニュースしか読者の関心がないとしたらそれは新聞が国民にとって切実な問題を提供していないからではなかろうか。ここに大衆の関心に追従し読者の眼を掩う新聞と大衆の関心を高め自らの生活と国の運命の打開とのために国民大衆の感情を沸き立たせその眼を開かしめる新聞の違いがある。今日の日本が未曾有の危機に立っているとしたらこういう立場の新聞もよろしいああいう立場の新聞もあってもいいという悠長なことは断じて許されない」と続く。

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2005年12月06日

新聞の力、影響力は表裏一体! 現代ではどうか?

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新聞と大衆
著者 キンズリー・マーティン(岩波書店)350円

 1955年初版。著者はケンブリッジ大学卒業後、1927年から1931年までマンチェスター・ガーディアンの編集人に加わり、その後ニュー・ステーツマン&ネーションの主筆に就任。
 各章とも思想的な論調で記されており、「大衆に対する新聞としての役割」を第1章「自由とは」、第2章「独占への傾向」、第3章「大衆が求めるもの」、第4章「新聞の力の限界」、第5章「無知と宣伝」、第6章「公共の仕事」、第7章「一つの世界の世論」で構成されている。
 「新聞の力の限界」の章で、印象深い1行があった。『新聞の力とは真相をかくすことである』人々が注意深く選び出されたニュースだけを読んで、真相を全部知らされたものと思い込むものなのだ。だから新聞は絶えず議論を重ねて間違いのないジャーナリズムを確立しなければならないのだ。
 「新聞の自由」は、長期にわたる困難な戦いで勝ち取られた民主主義の根本原則である。その自由とはニュースを無検閲で発表する権利、名誉毀損法の制約内で、政府または他の何びとの干渉も受けずに論評し、批判を加える得る権利を意味する。この権利は本来編集長により主張されるものである。編集長はニュースの真実性について、記者の批判と論評の公正さに関して責任を持つことを、大衆に知って貰わねばならぬからである。この自由は、真実とは公然さと探求することによってはじめて発見され、また政府は世論の監督下に置かねば、その権力を濫用し、そして良識ある世論は正しい情報を基礎にして、はじめて形成される、という論拠の上に立っている。

 古本屋で買われたこの本。要所に赤ペンでラインが引かれ、最終ページには東京大学経済学部の学生の名が記してある。
posted by 今だけ委員長 at 18:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍紹介