2014年11月10日

SNS活用で「小さな力を集めて大きな力に」 ふんばろう東日本支援プロジェクトで学んだこと

(きょうは新聞休刊日ですが)あす11日は東日本大震災から3年8ヵ月の月命日を迎えます。
 今回は今だけ委員長が参加している「ふんばろう東日本支援プロジェクト」(以下、ふんばろう)という被災者支援プロジェクトの話を紹介します。

 東日本大震災で新聞販売店というキーワード(いわゆる私の仕事的な)については、これまで何度も小ブログで発信してきましたが、個人的には叔父と叔母が津波の犠牲になり、親しかった友人も何人か亡くなりました。遺体確認に訪れた公民館には仁王立ちで御霊を守る消防団員の姿がありました。消防団の方々も被災者であるはず。その姿を見て「生かされている私も何かしなければ」と、その翌週から社会福祉協議会が募集するボランティア(被災したお宅の泥はきなど)へ休日になると通いました。春休み中だったので大学生も多く、彼らと一緒に力仕事をすると全身筋肉痛で自分の体力の無さを痛感ました。
 仕事を抱える傍ら、時間的な拘束もなく肉体労働系以外の支援活動はないかとググっていたところへ同業者のKさんからメールが届きました。小ブログを読んでいてくれた群馬県在住のKさんから「支援物資を直接被災者へ送るプロジェクトのチラシを沿岸部の新聞販売店へ(新聞折込として)お願いしたが断られた。なんとか受けてもらえないか」という依頼を受けました。新聞折込広告の規定からすると基準を満たしていない内容でしたが、そのチラシの内容を読んで「これはイイ仕組みだ」と思った私は、当該の販売店へお願いをして組み込んでもらいました。「ふんばろう」の存在をはじめて知ったきっかけは折込チラシだったのです。

チラシ.jpg これまで労働組合活動は多少やってきたものの、ボランティアという類は公園の清掃活動くらいだったので、自分にできそうなことをイメージしていた矢先に折り込みチラシが縁で出会った「ふんばろう」。当時の活動は、避難所で生活されている方々のニーズを地域のボランティア登録者が聞き取り、ふんばろうのホームページへアップする(サイトを見た支援者が直接避難所へ支援物資を送る仕組み)というものでした。メンバー登録の手続きを済ませると、すぐさま東京在住のAさんから連絡がきました。「すぐに会いたい」と。
 海外で仕事をするAさんはふんばろうの代表・西條剛央さん(当時は誰が代表なのかも知らずに登録してました)と同じ仙台出身者で、同プロジェクトの立ち上げから携わっていた方でした。メンバー登録をしてから3日後(4月10日だったと記憶しています)、仙台駅で待ち合わせて私が住む仙台市若林区内の避難所(当時11ヵ所)を二人で回りました。同区は市内で最も津波の被害が大きかったエリアです。コンビニで大量にコピーしたチラシを片手に訪問したものの、出入り口に控えた役所の担当者らに阻まれ被災者と会うことすらできない状況でした。知名度のない団体だからそのような扱いをされても仕方ないのですが、あまりにひどかった。その頃、公平・平等を重んじるお役所は「50人が暮らす避難所へ40個の支援物資が届くと、10個足りないことを理由に配らない」ということが相次いで問題となっていました。そのような配られない支援物資は宮城県や市の倉庫に山積みになって、最終的には廃棄される。「そんな馬鹿げたことをやっているのか」と思った私は、「必要な支援物資を必要な分だけ“直接”届ける」というふんばろうの仕組みを多くの被災者に活用してもらいたいという気持ちで若林区内の避難所に足繁く通いました。2〜3回と訪れるうちに避難所の代表者(町内会の会長さんとか)が一人、また一人と会ってくれるようになりました。
 はじめのうちは「ほしいものを届けてくれるって…。そんな夢のようなことあるわけないじゃないか。あとで過大な請求をされるのだろう」と疑いを持たれる方も少なくなかったのですが、仕事帰りに缶ビールを土産に何度か立ち寄ると気持ちが通じるようになりました。「うちのばぁさんが洗濯物を干すハンガーが欲しいと言っていた。お願いできるのか」。七郷市民センター避難所会長のNさんから遠慮気味に言われたはじめての依頼は忘れられません。その後、ふんばろうの知名度も徐々に広がり、私の行動範囲も仙台市ばかりではなく県内、被災三県へと広がっていきました。自家用車の走行距離は震災以降の1年間で5万キロを超えました。

 私はこのような支援活動は新聞販売店が最も適していると考えました。続きを読む
posted by 今だけ委員長 at 02:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 西條剛央