新聞太平記
著者 赤沼 三郎(雄鶏社)百六十円
1950年発行の大正末期(関東大震災)から昭和(戦中戦後)にかけての新聞界の裏表史。特に新聞社の覇権争い等を詳しく掲載されており、販売問題や記者クラブ、新聞労働組合の結成まで当時の様子が克明に記されている。「読売赤色騒動」(敗戦後の社内の共産主義傾向について)では当時の過激な労働運動(暴力スト)や廃刊まで決意する読売労組の闘いが印象深い。
新聞販売については、明治時代から「押し紙、積み紙、赤紙」の共通単語が存在し、乱売合戦の歴史は新聞が誕生してからずっと続いているものだ。当時は景品ではなく値引きが主流である。大正末期から進められた「販売店の専売制」が定着化するまでは、新聞社より販売店の方が力を有し、有力販売店が団結をして新聞を非売することもありえた。関東大震災後、打撃を受けた当時の報知新聞、時事新報等に対する、大阪系紙の攻勢は凄まじく「販売店に金をばら撒き在京紙の配達を止める工作」まで行っている。戦後はプロ野球などの興行で一躍新聞産業が肥大化していく様も詳しく書かれている。
記者クラブについては「不思議な存在」と称し、戦中の大本営発表の温床を指摘、クラブ員即ちメッセンジャーボーイと結んでいる。
戦後、すべての産業部門に先んじて新聞労働組合は結成された。印刷部門より報道部門の労働者が活発に活動を展開している。当時の組合が求めた民主化運動は、旧幹部の追放や自主的な紙面づくり。共産党色が強かった「新聞単一」の三役は聽潯克巳中央執行委員長(朝日)、鈴木東民副委員長(読売)、牧野純夫書記長(毎日)で構成。しかし、赤色支配は成功せず、読売の脱退を皮切りに労働戦線問題は離合集散を重ね、1950年6月に共産党幹部などの追放、赤色支配から手を切って、日本新聞労働組合連合が結成される。新聞労連結成当時は過去の苦い経験から個人加入を排した連合組織であった。結成当時の三役は三浦武雄委員長(読売)、長谷川直美副委員長(朝日)、竹中英太郎副委員長(山梨日日)、大谷恭市副委員長(島根)、岩本秀次書記長(毎日)。加盟組合は15労組、組合員数10,950名だった。