2008年04月15日

「もし、新聞がなくなったら」新聞をヨム日公開シンポ(其の三)

紙かネットかをいうの前に無料の記事配信でビジネスが成り立つのか?/ネットをなめていたのではないか


橋場)ネット時代における新聞の位置づけというかそういうものを考える上では、新聞社自身も少しずつ変わりつつあるということですね。ネット時代でも新聞は必要だよね―という点で言えば何が言えますかね。
坂東)私自身は一覧性、それから記録性というのが現代の社会において必要だと思っています。具体的な例で言うと3月29日のニューヨークタイムズの朝刊に私のインタビュー記事が出たんですけれども、後でそれが出たことを聞いてネットで探したんですが見つかりませんでした。もう次の日の画面になってしまってそのページにたどり着くってことができませんでした。これが新聞であればコピーで送られてくるのになぁと。コンピューターの画面の情報をどうハンドリングするのかということが、私の使い方が上手じゃないということを抜いたとしても、切抜きで過去の情報を保存することができるし、それを掲示用語で組み合わせることができるので家事と紙というのはなかなか使い勝手がよいのであって、新聞の持っている特性、それはメディアとして新聞が安定しているからそれをどう使いこなすかという手法も自分が身につけることができる。それに対してネットというのはいま現にどんどん変わっている最中で、新聞の競争相手というよりはテレビの視聴時間が食われているだろうとを思うのですが、日進月歩のネットもあるレベルに安定すればそれを使いこなす、それによって知的活動をどうアレンジするかという手法も安定してくると思うのですが、今はまだ安定していないのでキャッチアップすることに無駄なエネルギーがとられて、それを材料として本当の自分の考えを構築するというところまでできないのかなと。どんどん新しくなるツールをどう使いこなすかで知的エネルギーが削がれている気がします。

4.6東京 011.jpg

橋場)
新聞協会が主催するシンポジウムだから新聞のよいところしか言わないのではないかと、皆さんも当然そう思っているでしょう。でも、実際にはネットの中でも新聞批判がかなりありますよね。会場にいらっしゃる方は新聞の愛読者の方でしょうけれども、新聞はこれでよいのかという批判を思っている方もいらっしゃると思うのですが、会場の方から不満とかこれはおかしいんじゃないかというご意見がありましたら、ごく簡単に言っていいただければと思います。
質問者A)どこかのタイミングで橋場さんと粕谷さんの話を聞いて、あぁ現実を分かってないのだなぁと痛感して、さらに粕谷さんはわれわれには自身があるという胡坐を書いた発言があったので、橋場さんはこのような問題で金稼ぎをしているわけですから良いのでしょうけれども、本当の意味で危機感を感じてないと思います。本当のところ新聞はなくなってもいいんですよ。じゃぁなくなって困るのは坂東さんの出身の官僚、それから政治家だけですよ。新聞に書かれたことによる危機感、世論が動いたことで彼らはちょっと手を休めたりする。新聞がなくなったら困るのは国家権力が暴走するという危機感だけなんですけれども。あと先ほど橋場さんが言った学生の購読率は新聞学科の学生の70何パーセントですよね。
橋場)一般学生もいます。
質問者A)四谷キャンパスも僕も上智によく行くのですが、購読率はもっと低いと思います。それから、粕谷さんは販売も経験されているといってましたけれども実売の部数。これは皆さん公表しないけれども部数ガタ落ちとんでもない残紙が残っているんじゃないですか。
橋場)もっと要点をまとめて…もっと新聞社に危機感を持てということですか?
質問者A)記者でも北京五輪の開催地を知らないとか、そんな常識のない記者のその上で粕谷さんが胡坐をかいているのだったら、なくなった方がいいですよね。宅配やめて全部駅売りにして週刊誌と勝負したらいいんじゃないですかという意見を持っています。もっと危機感というか実態に即して発言してほしい。そうしないと意味のないシンポジウムになってしまうと思う。

質問者B)「もし、新聞がなくなったら」ってこのタイトルを見たときに私ショックだったんです。私は漢字にルビが掛かっているときから60年間朝日を読んでるんですけど、正直言って朝日新聞も「安保」まででした。あとは「あぁ朝日もダメになってきたな」でもこれって、マックスウェーバーの言葉に「国家は国民のレベル」もういまや週刊朝日も日本人の劣化というのを出しましたけど、すべてに対して「読み書きそろばん」藤原雅彦さんが国語力はまったくないから、だんだん若者に分かるような文章にって言うけど日本の文字はこれしかない。適当って言うのはいい加減な適当ではないんです。これが一番ベスト。これしかないが適当なんですけど、いまは適当って言うのはいい加減なんですよね。言葉自体がどんどん力がなくなってきて、私が死ぬまでは新聞はあるだろうと思ってますが・・・。
橋場)新聞に書いてある記事の国語力が落ちているということですか。
 お二方からの意見はもちろんパネリストも承知のことですが、特に若い人たち、ネットを使っている人たちの中ではいろんな批判もあって、それが読者にもつながらないというところもあってということもあります。川邊さんネットの世界では新聞をどのように見ているのかということをどう感じていらっしゃいますか。
川邊)議論が俄然盛り上がってきましたが、ネットの世界で新聞はどのように見られているかということですよね。さっきの質問者の発言に戻りつつ話をしますとヤフーニュースの責任者の立場で言わせていただくと、新聞がないとヤフーニュースはダメかなぁと言うのはリアリズムで捉えています。というのはヤフーニュースはヤフーの人間は記事を書いていません。70社くらいの記事の提供元と取り引きをさせていただいて、大体一日1億2千万PVあるわけです。そのPVのうち半分以上は毎日、読売、産経の3紙で、残念ながら朝日は記事を提供してくれないんですけど、その3紙でかなりのPVを占めているというのが現実です。じゃなぜそうなのか私なりに考えると、新聞の権威というか新聞社に対する信頼性というのはあると思うんですね。同じ記事でも読売新聞と聞いたこともない情報提供もとの記事を見た場合、ヤフーに来ていただいたお客様の意見は読売新聞の記事を見ていますので、それはひとつあります。一方でヤフーニュースには記事にコメントが付けられるようになっています。これは個人的には画期的なことだと思っているのですけれども新聞社は投書という形で読者の意見を載せていますが、すべては全公開されていないわけですね。ヤフーニュースの場合は全部公開なわけです。そうすると新聞社に対する信頼性があると同時にこの記事はどういう意図で書かれているのだという意見も寄せられて。ただそれも含めて読む力が付いていけば新聞社の人はこう思っていて、一般市民の方はこう思っている。トータルでこの事件をこう捉えているという読む力がついてくるので、結果としてはネットでも深く見ていく力を付けることにつながりますし、若い人がどんどんその力が付くように、活字にはレベルがあると思いますがそう思っています。
 会場から「安保までは」という発言がありましたが、昔は分かりやすかったと思うんですよね。東とか西とか、でもいまは何が違うのかが分からなくなっている時代なので、その割り切れない中で、いろいろな展望を見て読む力を付けていくという意味ではネットは貢献できるんじゃないかなと思っています。
橋場)粕谷さん、会場のご意見に対してどうですか。
粕谷)胡坐をかいていると言われましたが、決してそういうつもりはなくて危機感は当然持っておりますけど、私が話すことによって自分でも奮いたてて皆さんに「大丈夫だ」と安心していただかないと新聞社がこれから頑張るんだというメッセージであると捉えてもらいたいのですが、何もしなくても自分は生き残るとは誰も思っていません。だからネット情報をもとに新聞でもう一回確認をして深い情報を見てみようと若い人たちが思うためにそれぞれが努力しているわけであります。川邊さんにネットの中での新聞の信頼性ということを言っていただきましたが、ウィキペディアのように読み手が自分たちでその定義を判断するというのがネットの世界だと思いますが、新聞の世界は正しい情報を知らしめるというのが務めです。それを読んでいれば間違いのない情報が得られるし、間違えていればそれはきちんと正していかなければいけないと思います。ネットになくて新聞にあるもののひとつは、間違いないために皆さんにどう伝えていくか、間違いないニュースを伝える仕組み作りを各新聞社はしているということです。朝日新聞で言うと2,600人の記者が全国にいます。このうちの100人は校閲を専門にしています。毎日、朝夕刊の新聞を出す時にこの校閲部の記者が字の間違いだけではなく、事実関係の間違いやそういったものをきちんと点検して、そして商品として読者のもとに届けているという作業はネットではできないことだと思っています。そのことを若い人たちに伝えたいということの取り組みがNIE((Newspaper in Education)でもあります。すべての教室に新聞をということで全国の490の小中学校、高校や大学でもそうですが、新聞を使った授業が始まっているのもその一つです。ご理解いただきたいのは私たちは胡坐をかいているのではなくて、今日のテーマのもし、新聞がなくなったら国が滅びるということを質問者の方が言ってましたが、それを自覚していろんな事に取り組んでいるということを理解してもらいたいと思います。
橋場)最相さん、これまでの話で新聞の危機があるのか、ないのか。読者としてそして本をお書きになっている立場としてどうでしょうか。
最相)いま粕谷さんがいかにひとつの情報に対して手間暇かけてお金をかけて紙面を作っている努力を伝えられたわけですけれども、それは私は紙の新聞がなくなっても変わらないし人々は正しい情報を求めると思います。いま危機と言われているのは新聞ではなくて「紙」ということですよね。それはいくらでもネットに移行できますし、ただ一番の問題は無料で提供されているということ。ネット上での情報は無料であるという前提がいま出来ているために、それがビジネスとして成立するかどうかそこが問われているんじゃないかなぁと思います。結局ですね日経、読売、朝日で「あらたにす」という3社の記事が比較できるようなサイトが立ち上がりましたけれども、それは無料で読めるんですよね。私は新聞代を毎月1万円以上払っているのですけれども、ネットを見る人はそれだけでタダで見られちゃう。一番最初に日本の新聞がいかに宅配で支えられてきたか―という話がありましたけれども、情報が無料提供されてしまうことが、これまで日本の新聞社の経営を支えてきた販売の問題をきっちり考えないと何かスカスカの感じがして、紙かネットかという前に無料で情報が提供されているネット世界の中に新聞が飛び込んできてしまったわけですから、なぜそもそも無料で各社とも情報を提供してしまったのか、その時にはそこまでの危機感はなかった、どこかネットをなめていたんじゃないかなぁという気がするんですよ。目の前にこういう状況が襲いかかっているから新聞がこれまでの役割を保ちながら、しかし、無料で配信することでビジネスがどのように成り立っていくのか、そこを本当はキッチリ考えていかないといけないと思います。

(続く)

posted by 今だけ委員長 at 23:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
ツイート
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。