今回は今だけ委員長が参加している「ふんばろう東日本支援プロジェクト」(以下、ふんばろう)という被災者支援プロジェクトの話を紹介します。
東日本大震災で新聞販売店というキーワード(いわゆる私の仕事的な)については、これまで何度も小ブログで発信してきましたが、個人的には叔父と叔母が津波の犠牲になり、親しかった友人も何人か亡くなりました。遺体確認に訪れた公民館には仁王立ちで御霊を守る消防団員の姿がありました。消防団の方々も被災者であるはず。その姿を見て「生かされている私も何かしなければ」と、その翌週から社会福祉協議会が募集するボランティア(被災したお宅の泥はきなど)へ休日になると通いました。春休み中だったので大学生も多く、彼らと一緒に力仕事をすると全身筋肉痛で自分の体力の無さを痛感ました。
仕事を抱える傍ら、時間的な拘束もなく肉体労働系以外の支援活動はないかとググっていたところへ同業者のKさんからメールが届きました。小ブログを読んでいてくれた群馬県在住のKさんから「支援物資を直接被災者へ送るプロジェクトのチラシを沿岸部の新聞販売店へ(新聞折込として)お願いしたが断られた。なんとか受けてもらえないか」という依頼を受けました。新聞折込広告の規定からすると基準を満たしていない内容でしたが、そのチラシの内容を読んで「これはイイ仕組みだ」と思った私は、当該の販売店へお願いをして組み込んでもらいました。「ふんばろう」の存在をはじめて知ったきっかけは折込チラシだったのです。
これまで労働組合活動は多少やってきたものの、ボランティアという類は公園の清掃活動くらいだったので、自分にできそうなことをイメージしていた矢先に折り込みチラシが縁で出会った「ふんばろう」。当時の活動は、避難所で生活されている方々のニーズを地域のボランティア登録者が聞き取り、ふんばろうのホームページへアップする(サイトを見た支援者が直接避難所へ支援物資を送る仕組み)というものでした。メンバー登録の手続きを済ませると、すぐさま東京在住のAさんから連絡がきました。「すぐに会いたい」と。
海外で仕事をするAさんはふんばろうの代表・西條剛央さん(当時は誰が代表なのかも知らずに登録してました)と同じ仙台出身者で、同プロジェクトの立ち上げから携わっていた方でした。メンバー登録をしてから3日後(4月10日だったと記憶しています)、仙台駅で待ち合わせて私が住む仙台市若林区内の避難所(当時11ヵ所)を二人で回りました。同区は市内で最も津波の被害が大きかったエリアです。コンビニで大量にコピーしたチラシを片手に訪問したものの、出入り口に控えた役所の担当者らに阻まれ被災者と会うことすらできない状況でした。知名度のない団体だからそのような扱いをされても仕方ないのですが、あまりにひどかった。その頃、公平・平等を重んじるお役所は「50人が暮らす避難所へ40個の支援物資が届くと、10個足りないことを理由に配らない」ということが相次いで問題となっていました。そのような配られない支援物資は宮城県や市の倉庫に山積みになって、最終的には廃棄される。「そんな馬鹿げたことをやっているのか」と思った私は、「必要な支援物資を必要な分だけ“直接”届ける」というふんばろうの仕組みを多くの被災者に活用してもらいたいという気持ちで若林区内の避難所に足繁く通いました。2〜3回と訪れるうちに避難所の代表者(町内会の会長さんとか)が一人、また一人と会ってくれるようになりました。
はじめのうちは「ほしいものを届けてくれるって…。そんな夢のようなことあるわけないじゃないか。あとで過大な請求をされるのだろう」と疑いを持たれる方も少なくなかったのですが、仕事帰りに缶ビールを土産に何度か立ち寄ると気持ちが通じるようになりました。「うちのばぁさんが洗濯物を干すハンガーが欲しいと言っていた。お願いできるのか」。七郷市民センター避難所会長のNさんから遠慮気味に言われたはじめての依頼は忘れられません。その後、ふんばろうの知名度も徐々に広がり、私の行動範囲も仙台市ばかりではなく県内、被災三県へと広がっていきました。自家用車の走行距離は震災以降の1年間で5万キロを超えました。
私はこのような支援活動は新聞販売店が最も適していると考えました。 避難所へ毎日、新聞を届ける販売店スタッフが被災者のニーズを聞いてサイトへアップするという作業であれば、もっときめ細かな支援が可能になる思い某新聞社へ提案したのですが「却下」されました。私のプレゼン能力がなかったこともありますが、販売店も被災しているので対応が難しいことや新聞社も役所と同じで「公平・平等」(読者・未読者)の域をなかなか出られないのだと思いました。
一方で「あいつが被災者支援のボランティアをしているらしい」という話も広まり、広告担当の方から「家電量販店から扇風機を被災者へ支援したいとの相談を受けたが、どこに送ればよいのかわからないので対応してもらえないか」との話もいただきました。当時はふんばろうも資金がなかったので配る作業はボランティアが担っていました。休日ともなると扇風機を希望する被災者リストとにらめっこしながら、どれだけ効率よく配送できるかを考えたものです。そのおかげで沿岸部の地理はかなり覚えました。2011年の夏は猛暑で扇風機はどこの電気屋さんでも品薄の状態だったので、被災者にとても喜ばれましたのを記憶しています。
避難所から仮設住宅へと住まいを移した被災者がプレハブ仮設で過ごすはじめての冬を迎えました。気密性の高い仮設住宅では石油ストーブは危険であるため、電気カーペットやコタツの支援に奔走しました。その頃になるとふんばろう自体の資金もある程度確保され、発送作業は運送業者へ依頼できるようになりました。ただ、家電量販店から大量の発送作業はできなかったため、量販店から運送業者へ直送してもらい、その場で事前に作成した送り状を貼り付けるという作業が年末ギリギリまで続きました。
その後、翌年春には物資支援を終了し、仮設住宅でのコミュニティーづくりなどへ被災者支援のカタチも状況に合わせて変化しながら現在に至っています。ふんばろうは今年9月末で当初の役割を終えたと判断し、発展的に解散することになりましたが、資金管理に特化した「ふんばろう支援基金」を設立。また昨年4月からふんばろうの暖簾分けをした各独立プロジェクトがそのDNAを引き継ぎながら被災者支援の活動を続けています。
現在は、僭越ながら「ふんばろう宮城プロジェクト」の代表として活動を続けていますが、いまの仕事という領域では得られない経験をすることができました。ひとつの目的を達成するために無償で集まり、知識を提供するプロ集団の議論の過程、意思決定の素早さを体験できたこと。そして志を同じくする多くの素晴らしい仲間とつながったことに感謝の気持ちでいっぱいです。
書きたいことはまだまだありますが、大雑把にいうと上記のような3年9ヵ月でした。「なぜ、いまさらこんなこと書くのか」というと、ふんばろう東日本支援プロジェクトが「ベストチーム・オブ・ザ・イヤー2014」に選ばれたので、(前置きが長いのですが)ちょっと回想してみました。
ほめてもらうためにやっているわけではないけれど、自分たちの活動が後から後から評価されることって、やはりうれしいものです。
今年6月にも世界で最も歴史あるデジタルメディアのコンペティション・ゴールデン・ニカ賞(最優秀賞)を授かったばかりなので、国内外のふんばろうメンバーも“ビックリ”しています。
ふんばろうの代表を務めていた西條剛央さんは今回の受賞に際し、「『ふんばろう東日本支援プロジェクト』がベストチーム・オブ・ザ・イヤーを受賞しましたが、『ふんばろう東日本支援プロジェクト』というのは“記号”です。そこが本質的なことではなく、実際は東日本の支援活動にかかわったすべての人たちでの受賞と思っています。これは『ふんばろう東日本支援プロジェクト』が、というより、まさに東日本の支援活動にかかわった全員によるチームでの受賞と思っています(Twitterで僕をフォローしてくださった方やFacebookでの友達も含め)」と述べている通り、SNSを活用した新たな社会活動のモデルをふんばろうが実践し、被災者支援に微力ながら寄与できたと思っています。
※以下のサイトをご覧ください。
▽なぜ10万人がリーダーに頼らず自律的に動けたのか?──未曾有のボランティアチーム「ふんばろう東日本支援プロジェクト」の挑戦
http://team-work.jp/2014/fumbaro.html
▽ネットを利用した物資支援をお考えの方へ
http://wallpaper.fumbaro.org/busshi/outline
▽スマートサバイバープロジェクト
http://wallpaper.fumbaro.org/survivor/
▽ふんばろう宮城プロジェクト
http://wallpaper.fumbaro.org/miyagi-new