〜特権は人を腐らせる。おそらく例外はない。人生の早い時期に甘美な経験をした私は、その抗しがたい魔力を知っている。成人して、あるいは老成して特権にたどりついた人が、無残なほど脆く魔力におぼれていく姿を、同情をもって見ている。
社会には、特権を許してしまう環境がある。たとえば大臣に接する官僚の言動だ。あんな態度のスタッフばかりに囲まれていたら、1年を経たずして、どんな大臣でも自己規制のタガが外れてしまうのではないか。長期にわたって企業に君臨する経営者もまた、同じであろう。
腐ってしまう人間より、人を腐らせてしまう環境が憎い。ささやかながら、そうした思いが拙文の背後にある。
この数日間、ネット上で物議を醸しだしている朝日新聞の従軍慰安婦報道(の誤り)から派生した池上彰氏のコラム見送り(数日遅れで掲載)や週刊新潮の広告の一部を伏字にして紙面掲載した問題。
▽(池上彰の新聞ななめ読み)慰安婦報道検証(9/4 朝日新聞)
▽<朝日新聞>週刊新潮広告、一部黒塗りへ(9/3 毎日新聞)
今だけ委員長は、朝日新聞社内の特権的なおごりが出てしまったのではないか―という印象を持ちました。あと、実は打たれ弱い新聞社の体質というものを感じました。従軍慰安婦問題の報道の誤りに対して、さらに踏み込んだ検証を期待していた読者も少なくないのに「火消し」の方に目が向いてしまったと映ります。
ミスを犯さないために、またミスを犯してしまった際の事後対応を適切に実行するための関連部署や経営に携わる人たちの議論、または経営トップへどのような進言をしたのかが問われます。
池上氏のコラム見送りの件では同社の記者がツイッターを通じて「もし本当なら言論機関の自殺行為だ」、 「多様性のある、自由な言論は朝日新聞の生命線じゃなかったの?現役記者として危機感を感じます」などの批判的な投稿があったことも影響しているかもしれませんが、結局は池上氏へ謝罪しコラムを掲載するという顛末をたどりました。
この記者たちが書いたツイートには、新聞社という言論機関が機能不全に陥らないよう危惧する現場の声を強く感じるわけです。この意識がなくなり利益を上げるための企業に新聞社がなってしまったら、「終わりだな」と一読者として思います。
ネット上では朝日新聞への罵詈雑言が絶えません。建設的な意見も発信されていますが、「朝日叩き」をライフワークにしている人たちの発信を興味本位で拡散する輩も増殖しているように感じます。
読売新聞は朝日を批判する週刊誌の広告を破格のスペース(6/12段)で掲載。「慰安婦報道検証・読売新聞はどう伝えたか」という朝日批判のリーフレットを作り販売店が各戸へ配布するなど、ここぞとばかりに攻勢をかけています。
▽読売新聞、朝日の慰安婦報道検証で攻勢 チラシを各戸配布(9/2 edgefirstのブログ)
でも、朝日新聞(朝日新聞の論調)がなくなってもいいのか?と考えるわけです。読売、産経の論調を支持する人たちが増えてナショナリズムへ突き進む様を静観しているだけでいいのか?と強く感じるのです(対極として)。ときの政権というか、権力者が行おうとしていることを冷静に判断する材料を提供してくれる報道機関の存在は欠かせないのであって、新聞というメディアはその最後の砦だと思うのです。
「そんなことは国民一人ひとりが考え、決めればよいこと」という当たり前の意見もあるでしょうけれど、そこは冷静に現実を考えたいものです。過去の過ちを繰り返してほしくないと思っているから、そう願っています。
前出の加藤氏の随想のように、朝日新聞は特権意識が強くなりすぎているのかもしれません。そう勘違いされている人が下す判断がときには取り返しのつかない問題を生んだり、従業員のモチベーションを損ねたりするものです。そして、特権を得た人や組織へ忠言してくれる「人」が大切なのであり、耳を傾ける器量が必要なのだと思います。
朝日新聞社には反省すべきところは反省され、引き続き自由な言論機関としての活躍を期待しています。