著者:森内豊四(自費出版)
著者の森内氏は日本経済新聞社広告局、日経広告研究所を通じて広告の実務と研究の双方の経験をもとに、これまで発表した論文や寄稿などをまとめた自伝集。同氏は1998年から日本広告学会常任理事を務めている。
昨年発行(11/15号、12/15号)された宣伝会議への寄稿「新聞広告が抱える現代的課題〜いまこそ、新聞は混迷するメディア状況の指南役を目指せ〜」を読んで、森内氏にとても興味を持ち何かしらの機会に話を聞かせてもらいたい思い連絡をさせていただいた。その際に「資料に」とお送りいただいたのがこの広告雑記であり、念願の講演は5月に実現する予定である。
広告雑記は宣伝会議への寄稿のもとになったもので、「広告実務と研究の違い」、「広告営業改革の方策」、「これからの新聞広告」などを中心に15の文章と補遺(あとがき)から構成されている。内容はいまの新聞広告の現状を正確かつ厳しく分析されている。
一部を引用すると
◎(広告研究の)若手研究者の関心は、いつの時代も新しいものに向かう。いま研究者の主たるテーマは完全にウェヴに移っている。「(テレビ)CMによるブランド構築」から「モバイル・メディアによるブランド構築の可能性」が論じられる時代である。精しいことは不明を羞じるしかないが、新しい広告空間の創出かネット上の商空間か判然としないアフリィエイト広告など、研究者はますます先端を目指す。新奇なものに目を奪われ、その効力の検証に熱中する若手研究者には、それが引き起こす副作用やデメリットに対する監視と防備の意識がない。広告も球団経営同様、ネット企業に丸投げすればうまくいく、と言わんばかりの言説がはびこっている。新聞広告は研究対象や研究課題の埒外におかれてしまった。なかにはマス広告の終焉を公言する者さえいるが、健気にも、そういう広告研究を支援しているのはメディアでは新聞である。
◎(広告と売上げの関係を指し)衰退しているのは広告だけではない。わが国のマスコミはすでにここかしこで傷み、腐食の兆しが随所にうかがえる。マスコミ人の倫理観の衰退と規律の弛緩は、一々例を挙げるまでもなく、現場より経営上層部に相次いでいることに深刻さがある。自らの保身と利潤追求に走り、ノブレス・オブリージェの自覚といま矜持を亡くした新聞人はジャーナリストどころかただの企業人にすぎない。ファンドやネット企業の買収にさらされたときだけ、電波は国民のものとか公共財だ、などと抗弁するが、数字(視聴率)をとることしか頭にないから、俗悪番組か、物議をかもさない当たり障りのない番組ばかりがあふれる。「正義」を言い募り他を厳しく指弾するジャーナリストには、自分の所属する組織の下積みの人間が見えていない。組織に安住してタテマエを論じるだけでは、ブログなどホンネで迫るネット言論に打ち負かされるおそれもある。いまマスコミ経営陣に問われているのはジャーナリズムにふさわしい知力と良心、徳義の修復である。広告以前に、メディア自体の理念の建て直しが必要であり、いまはその土壇場に追い込まれている。
◎新聞はこれからのネット社会でどんな夢や希望、どんな物語を紡ぎだそうとしているのか、ネットとの融合でどんなビジネスモデルをえがこうとしているのか、新聞広告の閉塞感を打破し、新しい媒体価値と優位性をどう構築するのか。これらは現場の創意や工夫の域を超えている。縦割り組織の垣根を取り外し、現役の新聞人が総力戦で臨むしかない。新聞が自らの新しい魅力を発見し創造できなければ、優秀な若者を惹きつけることができず、それが発展の芽を摘み取ってしまうことを懼れるのである。これからのメディア競争で、今後の経営理念と戦略を自ら提示するほどの知恵と能力のない経営幹部は、単なる長老にすぎない。このメディアの激動、混迷の時機に、長老経営がふさわしいかどうか。供応接待の遣り取りで、読者と思索から遠ざかったマスコミ経営者は無用である。
一つ一つの言葉はとても重く新聞産業に内在する問題の本質を指摘しており、森内氏の見識の深さに感銘する一冊だ。広告職場の方にはぜひ一読されたいと願うのだが、残部がほんの数冊というお断りを森内氏から受けているのであしからず。
追記:3月3日に森内氏から「広告雑記」の要約が寄せられた。この書籍は一般に流通していないので、より詳しく内容を伝えるためにアップします。
『広告雑記』要約
@広告実務と広告研究は多くの点で重なり合うが、根本は違う。大学での広告論はそのままでは役立たない。もともと自社に広告がもっと集まるような研究も理論も存在しない。
A日本の広告界は学者が説くアメリカの広告ビジネスとは成り立ちが異なり、代理店と媒体が枢軸関係にある(英米では広告主と代理店がパートナーシップを組んでいる)。
B媒体取引中心の営業(タイムやスペースの売り込み競争)は、マスコミにふさわしい真っ当な広告ビジネスとはいえない。
C新聞社は広告界の重要な一員を自認しているが、広告主の広告計画に参画できないし、クリエーティブの埒外に置かれており、新聞社では本当の広告の仕事は無理である。真に広告が好きな優秀な若者は新聞社の広告営業に集まらない。
D広告の営業現場は神経の緊張と消耗が強いられ、「仕事を通じて自己実現を図る」は学者の虚妄に過ぎない。ビジネスの現場を離れると、残るものは企画推進の手柄話か苦労話だけである。
E新聞社の営業は広告申し込みが多いときは、掲載を巡っての折衝や苦情処理、閑散時には空きスペースの売り込みに狂奔するだけ。知的で生産的な作業とはほど遠い。
F記者出身の新聞経営陣は営業を理解せず、未だ新聞販売店と広告代理店の区別さえ定かでない者が少なくない。
G電通は日本の広告費の三分の一を占め、テレビ番組の質はもとより広告団体、広告研究をも左右する力を有している。同社は一人勝ちを制しつつあり、公正な取引が次第に阻害され市場メカニズムがはたらき難くなっている。電博とはいうものの、日本には「電通とその他代理店」しかない。
H広告界の現況およびビジネスの設計原理が改まらなければ、自分の子弟を喜んで継がせるほど広告がいい職業にならない。
広告収入が20年前の水準に落ち、なお後退を続けている事実も明らかになりました。もう一つ、新聞人の不祥事が挙げられます。記者から営業まで、また中央紙、地方紙関係なく汚染が広まっているように思います。新聞社の人材の劣化は、90年代に入ってすぐ始まりましたから、もう中堅社員にまで及んでいます。
金融のグローバル化と共に、有名大学の理工系まで金融機関に殺到した時以来です。金融がおかしくなると、彼らはIT産業に向かいました。マス媒体でも地味な新聞より華やかなテレビを択ぶ軽薄な若者ばかりです。
それでもなお経営が成り立っているのは、各種の規制、保護策に守られ、本当の競争にさらされていないからです。戦後倒産した新聞社は他産業と比較しても数えるだけではないでしょうか。もっともこの点は、新聞社により事情が違いますが、マスコミ経営は”優れたオーナー”の元にあるほうが、ずっといいのではないかという気がしています。
小著172Pの新聞経営論は、日経初め中央紙の姿が念頭にあり、任期中のみうまくいけばいい、といったサラリーマン経営者の話です。経営とジャーナリズムは完全に分離されていなければ、新聞記者の堕落を招くのも、各社に見るとおりです。その点、オーナー経営者のほうが、”オレの会社”といった意識が強く、論調は現場の記者に任せて、経営にのみ長期かつ真剣な取組みで臨んでいるように思います。ちょうど、出版社がほとんどそうであるように。
その意味では、志の業から大企業を目指すようになったときから、新聞は堕落、衰退に向かったと言えるかもしれません。
それとは別に経営内容の厳しい地方紙では新聞人のモラルというか倫理観が崩れかかっている状況もあります。一部の宗教団体のコラム連載や、電通主導で国家権力側に偏った記事体広告が増えるなど「背に腹は変えられない」という状況に歯止めを掛けられない状況のところもあります。
一般企業であれば、儲ける事に全精力を注ぐのでしょうが、新聞社として重要なことは儲かることだけではないと思うのですが…。言い換えると公共的であることと儲かることは一致しないのです。例えは間違っているかもしれませんが公共性の職業として警察がありますが、われわれはいかに警察になれるかを求めていくことが大切で、一部の人からお金をもらって働く警備員のような存在になってしまっては公共性を保てなくなってしまうと思います。労働組合も「儲けの話は経営者が考えればよい」と跳ね返すことをせず、真剣に考えているのですが、このような辛い問題が若手の新聞労働者の士気を引き下げる要因になっていると最近強く感じています。
新聞における適正な広告量とは?、広告収入の適正規模とは?、読者に「いい広告」と「いかがわしい広告」の線引きをどこにおくか、などさまざまな重要かつ根本的な問題を投げかけています。
新聞が志の業から企業への道を歩みだしたときから、この問題は当然予想されたことですが、長年広告収入に依存してきた新聞の経営体質は容易に元に戻せません。こういうことを問うこと自体、広告関係者は「商売」への妨げだとばかりに気色ばみ、冷静な議論になりません。
確かに撤退はもとより、縮小は、現実の企業経営にとって難問です。企業も企業人もダウンサイズ(縮小)という選択肢はほとんど取れません。学者が説く理念、理想は誰だって判っているのです。ただ実際の対応はそれほど簡単ではありません。意地悪な言い方になりますが、世間並みをはるかに上回る所得給与の大幅カットに、新聞労働者の賛同が得られるかどうか、といったことを考えれば、その困難さは容易に想像がつくことです。
新聞広告費が低下しているとは言え、読者に真に役立つ広告だけでやっていくということは、そういうことでもあるわけで、これは編集局、工務局など新聞社に席をおく人全員の問題だろうと思います。
ただ読者の信頼を失っては新聞の基盤を失うことは間違いなく、その辺がこの問題の最大のカギになることは間違いありません。
この課題への取組みは経営サイドからは出てきません。現場からの声に依るしかないと思います。新聞労連のレゾンデートルが今問われている、とも言えます。
若者の関心は完全にネットに移行しているにもかかわらず、新聞経営陣の意識は昔のままです。よくマスコミ経営と言いますが、もう「マスコミ」は古いのです。10年以上前から「メディア」経営が問われているのです。
販売当局と広告当局の現場を叱咤するのはマスコミ感覚で、それではこのメディア競争に太刀打ちできません。宅配そのもの、紙媒体そのものがどうなるかまで考慮に入れていかなければならない時代だと思います。
しかし、現経営陣に今さらネットを勉強しろ、と言ってもその年齢からでは無理でしょう。ネット時代の新聞のあり方、ネットと新聞の融合を構想できる若い経営者の登場が俟たれます。それに成功しなければ、やはり新聞の将来はかなり危ういと見なければいけないと思います。
「広告関係者」は、得意先接待かどうかは別として、平日は飲み会、土日はゴルフで、読書や思索から一番遠い存在です。とりわけ幹部は、そうした供応接待でくたくたになり、モノを考える気力さえなくしています。メディア存亡のカギの一つが広告にあるわけですから、本当はもう少し静かに考える余裕をもってもらいたいと思うのですが、営業という仕事は、そういう真面目な取組みを失くする、バカを純粋培養するようなところがあります。販売と違って、最新のカタカナの専門用語を多用するので、広告の仕事が知的で創造的に見えるかもしれませんが、内実はそれとはほど遠いところにいます。
これまでも現役の広告人からの反応が少ないことに、いささか落胆していました。まず広告関係者にちょっとでも気づいて欲しいという気持ちに変わりありません。もし小関様のブログを通じて、そういうチャンスが生まれれば嬉しい限りです。
これまでのメールはすべて公開してもらって差し支えないものばかりです。ご負担をお掛けしない範囲で、お願いできればまことに有難く存じます。
藤原 治『広告会社は変われるか』(ダイヤモンド社)、藤原 治『ネット時代、10年後新聞とネットはこうなる』(朝日新聞社)、河内 孝『新聞社――破綻したビジネスモデル』(新潮新書)
藤原さんは電通総研の前社長、河内さんは毎日新聞社の元常務です。
藤原さんの本は前者は広告論、後者はメディア論ですが、どちらも2011年の地上波テレビのデジタル化が引き金になって、新聞やテレビの立ち位置が大きく後退、ネットとメディアが融合したビジネス・スキーム「eプラットフォーム」の下で、「1ツール」に呑みこまれると予測しています。
河内さんは、主として新聞の販売現場の異常な実態を暴き、それが新聞経営を危機的状況に追いやっている構図を分析、「毎日と産経、中日3社」は経営統合すべきなど、大胆な提言を行っています。
それぞれ迫り来るネットへの重要で刺激的な指摘で、マスコミ経営陣の対応の鈍さを憂える時宜に適った内容だと思います。マスコミが置かれている現状と来歴に関する認識は、広告分野で私が小著や小論に書いたものとそれほど変わらないと思っております。
ただ、藤原さんは広範な知識と研究による説得力のある主張ですが、それほど「直線的」に、論理通り進まないのではないかというのが偽らざる感想です。また河内さんも、新聞記者は経営トップになるべき資質を備えていない、といった遠慮があって誰も言えなかったような鋭い指摘をしていますが、現状ではどの程度新聞人の理解が得られるか疑問が残ります。
無論お二人ほどの学識がありませんから、このような包括的な本が出た後では迫力に欠けるかもしれませんが、新聞広告が抱える問題点を、現状に即して、率直に話させていただこうと思います。「こうすれば事態は解決できる」というような”救済策”は私にはありませんが、新聞広告の”のっぴきならない状況”を新聞ではたらく仲間の皆さんに、少しでも理解していただくよう務めたいと思っております。
森内豊四
ご紹介をいただきました書籍のうち、藤原さんの「ネット時代、10年後新聞とネットはこうなる」と、河内さんの「新聞社ー破綻したビジネスモデル」の2冊は読み終えました。今年に入って業界内部の問題に触れる書籍の発行が猛ラッシュですが、毎日新聞OB の方が多いように感じ「何か」を予感させると深読みするのは私だけでしょうか?
森内様が指摘されている広告の問題に加えて、経営が厳しい地方紙をターゲットにした特定宗教団体会長の寄稿掲載の問題が浮上しています。これは広告特集などの扱いではなく、通常の紙面に掲載(月1回で隔月)し、そのバーターとして数千人の構成員による定期購読が水面下で確約されているというものです。寄稿の内容そのものは宗教色もなく偏ったものではないということですが、統一地方選や7月の参院選の時期とちょうど被さるように仕組まれています。組合は掲載差し止めを要求していますが、経営側はその訴えに「内容に問題がない」などと煮え切らない返答を繰り返すばかりで掲載が断行されています。(背景にはその団体が発行している新聞の受注印刷の関係もあるようです)
このような「編集の問題」と「経営の問題」の狭間で“もがいている”状況の中で、新聞広告が「儲かるためなら…」という間違った認識を正していただき、情報としての広告、そして新聞本来の役割を“ぐずぐず”している労働者に喝を入れていただければと存じます。
いつもながら乱文失礼します。
> 今年に入って業界内部の問題に触れる書籍の発行が猛ラッシュで
> すが、毎日新聞OB の方が多いように感じ「何か」を予感させると深読みする
> のは私だけでしょうか?
実は私もそう感じています。昨年「宣伝会議」に原稿を出す寸前に削った部分があります。それは一つは、「全国紙の中には、日本の広告費の3分の1を扱う電通に広告売上の5割以上を依存している社がある。これは、ある意味、電通に経営を握られていると言えるし、マスコミ媒体が倒産することで、広告への信頼が揺らぐことを警戒する電通の”指導力”に助けられているとも言える」、というものです。
もう一点は、「新聞社の論説委員の中には、テレビのコメンテーターと称して朝からまでテレビに出て、どちらが本業か分からない人が結構いる。自紙のPRの積りかもしれないが、彼らはひょっとしてテレビからのアルバイト収入のほうが多く、本社もそれを承知の上で、人件費削減の一環で奨励しているのではなかろうか」という箇所です。
> 経営が厳しい地方紙をターゲットにした特定宗教団体会長の寄稿掲載の問題が浮上し> ています。これは広告特集などの扱いではなく、通常の紙面に掲載(月1回で隔月)し、 > そのバーターとして数千人の構成員による定期購読が水面下で確約されているという> ものです。
この事実は全く知りませでした。これは新聞の危機の遠因ではないでしょうか。
新聞は日本を代表するジャーナリズムを自任してきましたが、こういうことがはっきりすれば、読者の信頼を失い、読者離れに拍車がかかると思います。いや、すでにかなりの読者はそれを知っているでしょう。誰かの指摘にありましたが、「活字離れ」ではなく、「新聞離れ」で、それを招いているのは新聞社自身です。
今回のお話をいただいてからでも、新聞界と広告を巡る環境は急転回を遂げているようです。したがって、まだレジュメを作る気になれません。全国集会の日がもう少し近づかないと、何が起こるかわかりませんから。おそらく5月の連休が明けてからのことになると思います。
急に暑く(?)なりました。週末は絶好のお花見日和ですが、そんな気も起こらないほど、新聞を巡る環境は厳しいようです。新聞各社の経営トップの胸のウチを知りたいのですが、小著172p、あるいは305〜306pに書いた通り、私はかなり悲観的です。自分の任期中さえうまくいけばいい、ということで、財界人や高級官僚との供応接待に明け暮れています。(いつか申し上げた優れたオーナー経営者は別だと思いますが)。
森内豊四
長い間、広告は景気動向と歩みを共にしてきましたが、最近の状況は、従来のパターンが当てはまらなくなったことを意味します。異常というか、少なくとも広告が大きな転換期を迎えているのは事実だと思います。(小著にも書きましたが、私は広告はとっくに成熟期を過ぎたと見ています)。
先ほど知人からメールをもらって思い出したことがあり、お伝えいたします。
2週間ほど前、「宣伝会議」編集部から、突然、新聞広告に関する300字提言を求められ、一晩で原稿を書き上げ出しておきました。それが同誌4月15日号に出ているそうです。
末筆ながら、気候不順の折お体お大事に。
森内豊四
森内様が指摘をされている通り、新聞広告は大きな転換期を迎えています。
転換といっても好転する可能性でもあればよいのですが、最高売り上げを記録した1997年の水準と比較して、昨年度は▲21%ですからかなり厳しい状況に陥っています。販売は10年間でも▲2%程度(実際はもっと落ち込んでいると思われますが)ですから、尋常ではない数字です。
また、新聞広告の段数単価比を見ても、金額で21%落ち込んでいるのに広告段数は4%増えているという現象が起きています。ダンピングの結果、広告単価が下がり(当然、用紙代も増加しています)1997年当時の水準(売り上げ)まで戻すには、今の状態よりも30%近くの広告段数を割かなければ・・・もうすでに修復不可能という状態になっています。
そのような状況の中で、新聞は何をやっているかというと「ネット戦略も他社の横にらみでどうしてよいのか分からない」、「全戸宅配のフリーペーパーを新たに発行して紙面広告のマイナス分を補う」、「あとはリストラ・・・」という程度でしかありません。
フリーペーパーなどの新媒体発行も「蛸足くい」で目立った効果は期待できず、ポスティングに掛かる経費は販売店の持ち出しで、事業として成り立っていないというのが実情です。
小手先の手法で「いつかは良くなるさ」という発想ではなく、将来的な産業情勢に備えて「いま何をしておくべきか」、「新聞は何を守るのか」という新聞経営が求められていると感じます。数字を見るたび滅入ってしまい、A・トフラーの「第三の波」を読み返しています。
また感情のままに書いてしまいました。お許しください。
添付いただいたデータのうち、’06年の「新聞広告掲載量」は、既に電通から発表になっています。今回から電通は同社のホームページのみでの発表となり、3月8日付けで出ています。(新聞協会の発表は、広告費・広告掲載量ともこの電通データに基づいています)
電通がペーパーでの発表を取りやめたのは、インターネットが普及しているから、という表面上の理由の他、小関さんがなさったような計算で、広告単価の低下が一人歩きすることを避けたいとの配慮が働いたかと推測いたします。(以前から私もこのような計算をしておりましたが、全国紙から地方紙まで十把一絡げでの計算は、やや正確を欠く面があります)
因みに、’06年の新聞広告量は6,080,737段で、前年比0.5%減です。同じ計算方法で単価を出すと、16,422 円となります。(なお小関さん算出の’05年の数値には、若干の計算ミスがあるのではないかと
思います)
実際には、小関さんの計算よりも単価は大きく落ち込んでいると思われます。と申しますのは、’97年から’06年までの10年で、カラー広告は大幅に伸びており、’06年も7.7%増で、4年連続の伸びです。カラーは同じ広告段数でカラー料が加算され、「広告費総額」に含まれておりますから、広告単価のマイナスは 見かけよりもっと大きくなります。
ここ10年ほどのカラー化投資は、全国の新聞社でかなりの額に上ると推測され、この面での採算見通しはどうだったかの検証も必要でしょう。
もう一つ、小泉改革以降、東京と地方の格差が大きくなっていることを見逃すわけにはいきません。昨年の全面広告も全国紙より地方紙が落ち込んだようで、
その傾向はテレビCMに、よりはっきり現れているようです。いつかご指摘の消費者金融の広告や宗教団体関連の動きも、その格差が影響していると思われます。無論、地方と一括りすることは間違いで、地方間格差も見逃せません。(上に「やや正確を欠く」といった理由の一つです)
以上、気づいたことをお送りいたします。新聞広告の行く末は、現役の新聞人が思っているよりはるかに深刻です。
森内豊四
以下は、森内さんと私のやり取りをSNSや私のブログで公開し、寄せられた意見です。
投稿者はハンドルネームで記してありますが、皆さん新聞社に勤務している方です。
(小関からの問題提起として)
昨年発行(11/15号、12/15号)の宣伝会議へ寄稿された森内豊四さんの「新聞広告が抱える現代的課題〜いまこそ、新聞は混迷するメディア状況の指南役を目指せ〜」を読んで、森内氏の考察にとても興味を持ち、5月の額集会開催を目指して現在調整をしているのですが、森内氏から新聞労働者(特に広告職場)は新聞広告事情について、いまどのような状況にあると分析しているのか?、今後のマス広告のあり方や収入構造についてどのように考えているのか? 特に若い方々からの意見を聞きたいとの要望があり、さまざまな場面で意見集約をしています。このコミュを借りて皆様からご意見をいただければと思います。
(続いて森内さんからメールで頂戴したご意見を掲載)
(Cさん)
「宣伝会議」の寄稿を読みました。思い入れはわかるし、「危機感を持つべきだ」というのもわかりますが、「じゃあ、どうするんだ」がないので、かなりがっかりしました。
新聞は、ジャーナリズムを紙の上に表現して、その下半分を広告としてビジネスしているメディアですが、私自身は新聞記者出身でありつつも、気持ちの中で、「紙の上で」という発想はなくなっていて、やはりグーグルの検索連動型広告とかに負けないビジネスモデルが出来ないと、ジャーナリズムが支えられないと考えています。
そういう面で、現在の新聞広告関係者に、「何か考えろ」といっても、前提条件が違うので、無理だと思います。
若手の広告局員は結構危機感を持っていて、個人的に勉強している人も知っています。でも、彼らは声に出しては言わないようです。「どうせ上司にはわからないだろうから」と。そして、ある日、辞表を出してネット広告の会社に移っていくのでしょう。
藤原治さんの「広告会社は変われるか」という本も読みました。これも、危機感と、日本の広告会社に刷り込まれた遺伝子の問題を、ストレートに書いたことは評価できますが、「じゃあ、どうするのか?」はとても弱い。やはり60歳を過ぎた方で、しかも日常的にPCを使っていない人が語るデジタル論は、宙に浮いている。e-プラットフォームも、もう出来上がっているともいえるし、一般的なネットとは別にそういうものが出来るのかな?という疑問も大いにある。
私自身が、まだ「これだ」と言い切れないのがもどかしいのですが、ほのかに見えてきている情景は、「つながり」ってことです。SNSがその実験場だと思うのですが、普通の人が情報を伝え、これが購買行動につながったりする。つまり販促のプロシューマー現象です。ここに「宝の山」があると、ほぼ確信しつつ、そのモデル化が出来るかどうかだと思うのです。つまり、「パブリシティからコミュニティへ」が情報の流れであるし、広告(販促のための情報活動)もそうだと考えています。
広告は素人なので、そのくらいしか書けませんが、そのうち、このロジックをまとめてみたいと思っています。
(小関)
Cさん!ご意見ありがとうございます。
「紙の上で」は発想がなくなって… 若手の方々も感じているけれど旧態依然の新聞経営の発想に愛想つかした方が辞められているのかも知れません。「じゃだどうするの?」をこの2年半くらい多くの方からお知恵を授かろうとしてきましたが、業界に身をおく方との議論は「思わせぶり」の話しか伺えていないものですから(私の無知さも問題ですが)いろいろな方にアタックしています。
Cさんからのご意見を伺って感じたことは「内部の人」との議論では「じゃどうするの」は出てこないかもしれないということ。なぜなら「紙」からの転換を緩やかに図ろうとしているうちは「宝の山」がボヤッと見えても「いまの状態を変えたくない」という方々が大半を占めていると思うからです。でもオーナー経営の地方紙ならば可能性はあるような気もしていますが…。
私も広告は素人なのですが、人と人とをつなぐことは出来そうな気もしていますし、それが今の仕事だと思っているのでもう少し踏ん張ります。
(以下に続く)
(Cさん)
大学で経営学を教えていて、つくづく思うのは、日本の新聞社って、日本の先端の経営から30年ぐらい、世界の先端から50年ぐらい遅れてるんじゃないかと思います。殿様商売そのものですよね。悪い予測かもしてませんが、30年後には日本の新聞業界は廃墟のようになっていると思ったりします。明治30年に江戸時代を思い返すが如くに。
私の頭の中で、紙の新聞がなくなったのは、25年も前で、ずっと会社の中では変人扱いされていましたが、ここ10年は、好きなようにやらせていただいています。右手に電子ペーパー、左手にインターネット・・・って感じでしょうか。
本当のことを言っても叱られないポジションを確保したので、ほぼ本当のことを書いたり、しゃべったりしています。個人的に、いま気に入っている本は「アンビエント・ファインダビリティ」というもの。この本は技術的には最先端。でも私は、「人」の問題が抜け落ちているのが、この本の大きな欠陥だと思います。
多分、この本をしっかり読んで、理解できる業界人はいないはず。この本が言ってることが、20年か30年後の新聞を考える基礎的なことだと気づいている人もいないでしょう。
変化は気づかないところから忍び寄り、それに気づいたときにはもう手遅れ・・・・ということになると思います。大学にいて、メディア論を講義していて、新聞社志望はほとんどいません。テレビ、広告会社、ネット・ベンチャー・・・そういうところに行きたがるばっかり。新聞業界は化石の産業になりつつあると感じます。
(小関)
もう手遅れにならないように行動していこうと思いますが、行動すべき業界人が変化に気付かず理解できなければ“おしまい”になるかもしれませんね。
ネット社会になっても情報を共有できないのは、産業論ではなく企業優先の思考が強くなって、皆一人勝ちを目指しているせいか、このようなトピックスでは声があがりづらいのかもしれません。
Cさんが書いていただいた貴重なコメント。「バック・トゥ・ザ・フューチャー思考」がどのように推移していくのか?ただボッと状況の変化を待っているわけにはいきませんので「アンビエント・ファインダビリティ」とりあえず読んでみますどうもありがとうございます。
(Jさん)
まさに私こそが新聞社の広告職場の営業であります。純粋培養された馬鹿者です。反感を抱いてそういうのではありません。いつでもここから逃げ出そうと考えているからです。しかし、逃げ出すのは私自身ではなく、このポジションから脱却したいと思っています。
新聞広告の衰退は広告職場の現場ではかなり以前からリアリティを伴って感じられる事実です。部数の減少やメディアの中での位置付けなどの変化で予測も可能な事実でした。
広告局の仕事は「記者を(もちろんそれ以外の社員もですが)食べさせていくための“商売”である」と割り切ってここ何年かは仕事をしてきました。優秀な記者も給与をちゃんと与えないと他社に流出してしまいますし、なにより人材が集まりません。正直なところ、広告紙面の公益性などというものは私は存在していないと思います。なぜなら、全ての企業が媒体を利用して読者や二次読者といった消費者の、「財布の中身を狙うハイエナ」であることには違いがないからです。
極論かもしれませんが、もはや消費者は自分の判断で自らの消費活動の責任を負わねばならないと思います。そのために、生産者や広告表現に規制があるのであり、明らかに読者に有害だと分かっていても、その企業が合法的に消費者にアプローチを掛けようとしているのを媒体社が制止することこそ出過ぎた真似ではないか、と考えるからです。
異論もあるかもしれません。しかし、私は広告職場の一員として、社員が新聞媒体を使って報道活動を続けていくのを少しでも長く、少しでも効果的に行っていくのを支援するのが自らの務めであると信じて疑いません。
取材する人間さえ養えれば、違う媒体でも報道活動は継続できると考えるからです。そうです。時代に即したメディア経営をしていくことがこれからの新聞社の務めであると考えているのです。一部の系列を除いては、テレビと新聞はおおむね系列として連動しています。これを拡大し、メディアグループとして、有料放送やネットでの情報配信など、あらゆるメディアの中からそのメディアグループの“ブランド”を選択するのが正しい消費者への情報提供のカタチだと私は考えます。
問題は、それぞれのメディアにおいてビジネスモデルが著しく違うということです。例に挙げるなら、ネットでの収益の上げ方と新聞での収益の上げ方は著しく違います。私は、新聞広告のセールスを中心に行ってきましたが、やはり限界は見えるものの、新聞広告のセールスはこのままの形態でないと維持できないように思います。
従って、「違う媒体のセールスもしてみたい」というのが、偽らざる個人的な本音で、「新聞広告でいかにして収益を上げていくのか」が業務的な目標なのであります。何もかも、時代に即して変身していく事だけが新聞の将来ではないと思っています。小関さんや森内さんの御説御尤もですが、人間はそんな速いスピードで変化していけるほど高い知能の生き物ではありません。おそらく。私がそうであるように、PCとは無縁の生活を望んでいながら仕事でやむなく使用しているだけの人がどれだけ沢山いるか、と考えると、メディアの進化は実に迷惑な話です。
私が会社に入った頃は、ポケベルなどで連絡を取るのが最速の連絡方法でした。しかし、いまやテレビ電話にパソコン持ち運びの時代です。そんな沢山の情報を抱えて人間は「自己」というものが持てなくなってきているのではないか、と私は懸念しています。
「考えさせるニュースとそれに関する読み物」を提供し続ける新聞の発行を私は維持し続けたいと切に願うばかりです。
(引き続き)
(Gさん)
私も新聞社の広告営業でございます。
元々記者志望でしたから、希望が通らず来てしまったと言う部分で腐ってたりしてますけど、何とか頑張らなくてはと思い、やっております。「純粋培養された馬鹿者」って何か上手くいえないですけど、当てはまってますね・・・。
(Nさん)
広告の現場としては耳が痛いですね。
私が地方新聞広告営業として今感じる事は【新聞広告】が『魅力的な商品』としてあるためには、@時流にあった新しい商品へ変貌Aこれまで通り30年前と変らない営業で顧客密着Bまるっきり新しい何か新聞広告も商品であるため、我々のような営業が存在します。しかし、広告会社の営業も既に活字離れした若者に変りつつあります。東京の大手広告会社の営業マンは毎朝新聞を読んでいるのでしょうか?新聞広告の特性を理解して広告主に提案出来ているのでしょうか?「新聞社の採用試験での面接の日に新聞を読んでこない新卒者」の話を聞いた事があります。新聞社志望の若者がそうであれば、広告会社ではなおさらなのではと思うのです。
現在の新聞広告の多くがAの営業が必要な商品ですが、営業する人間は@を求め顧客密着の営業が出来ない。これは熟考していない思い付きですが、ここのかい離が現在の状況を招いていると感じます。
地方ではまだ「顧客密着」が可能です。新聞での「地域密着」の広告は、地域の読者にとっても新聞社にとっても「いい広告」ではないでしょうか。@は「これからの新聞とは」という大きな問題が壁となり思考が止まってしまいます。中央紙などは@を開発していくしかないかと思います。Bはこれからみんなで考えなければならない新聞社の新しい収入モデルとなるモノでしょう。
ちょっと私が感じている事を徒然と記してしまいましたが、このこともネットでのやり取りではなく、対面でしっかり意見を交換することで新しく生まれるものと信じています。
(小関)
Nさん!
書き込んでもらいありがとうございます。意見聴取の仕方も不調法なものですから…なかなかこのような問題提起は煙たがれますし、対面でじっくり意見交換をしたいのですが一丁前にスケジュールだけは詰まってしまうものですからスミマセン。ぜひ、5月19日〜20日はスケジュールを空けておいていただけませんか。東京で上記のネタを森内氏に講演をしていただき議論する企画を催す予定です。
(Kさん)
非常に共感を覚えますね。今は東京支社ですが、入社後販売に所属し、広告異動後も再度販売に戻った経験から、新聞の商品力というものを考えることは多いです。
今、元リクルートの江副氏が出版した「リクルートのDNA」を読んでますが、冒頭に「考え方を同じにする」というくだりがあります。いったい私たちは何のために働くのか、どんな会社にしたいのかを再定義し、それを達成するためにマーケティングの4Pを一から考え直すべきなのではないかと個人的には考えています。
(Sさん)
皆様ご無沙汰しております。
現在、記者職なので、おおざっぱなことしかいえませんが、毎日新聞の常務を退任された河内孝さんが新潮新書から「新聞社−破綻したビジネスモデル」を最近出版されました。広告にとどまらず、販売、ネットまで含めた今後の新聞のビジネスモデルがどうなるか、参考になる本だと思います。
それから、ソフトバンク新書から筑波大講師の掛谷英紀さんが「学者のウソ」という本を出版してますが、99年〜05年の朝日、読売新聞の脱税記事の扱いと、広告出稿量を比較した研究を紹介してます。それによると、朝日新聞では、スポンサー企業の方が脱税記事の扱いが小さいという結果が出て、読売新聞では有意な差が見られなかったという結論が出たそうです。この2冊は非常に考えさせられました。
個人的には、販売、広告、事業、編集といった職種が完全に縦割りになっているのが、新聞社の大きな課題であると思っております。それから、広告代理店への依存が強すぎるのも問題です。米国ではグーグルが新聞広告の代理業に進出するテストを行っているそうですが、それが成功するのかどうかを注目しております。
(引き続き)
(Nさん)
一つ言えるのは、電通様頼りの経営じゃもうダメだろうという事。森内氏は新聞広告は不動産屋だと書かれてましたが、すでに不動産業すらあきらめて建託業者に丸投げしている地主状態です。
各新聞社の東京支社の人間がどれくらいナショナルクライアントと直接折衝していますか?地方紙の広告局は電通様の広告制作子会社として東京から降って来る企画特集を作りつづける毎日です。あげくの果てに(うちじゃないですが)顔色伺いに金銭でイベント動員まで掛ける始末。ジャーナリズムの独立性が聞いてあきれますよね。
そういう香ばしい臭いを市民は嗅ぎ付けているんでしょうね。活字離れなんて嘘っぱちです。ケータイを高速連打をする高校生は活字で親友を作ります。明らかな新聞離れなんです。
(小関)
この辺りのネタについては、書き込みが難しい?のでしょうかねぇ。
5月に企画している全国集会では広告会社の方と地方紙のメディア局の方をパネリストとして迎え、議論をしようと考えているのですが、特に広告職場の方にネタ振りをすると「やめた方がいいんじゃないですか(余計なことするなよぉ)」と言う返答ばかりでして…。
(新聞社を)オレが喰わしてやってるんだよ!という彼らの気持ちも分からなくもありませんが、広告獲得至上主義に向かっている新聞業界を皆さんはどう思うのかを聞かせてほしい?
「背に腹は変えられない(先輩にそう教えられたから)」から、代理店から原稿を書き直されても仕方ないか…。でもいざ鎌倉の時(例えば過去の大本営発表に追従するような)はきちんと反対しますよ!という意見も聞こえそうですが、さて?どうなのでしょう?
経営的に厳しい新聞社を狙い撃ちして、特定の団体が編集権にまで踏み込んでいくる。この問題は「寄稿内容に思想的な箇所はない」から、編集権(いわゆる経営権)の判断として容認したとの事ですが、“銭稼ぐためにはしゃぁない”のでしょうか?
新聞人も常に接している方々から影響を受けて『新自由主義』の思考に向かっているのではないか(それが悪だとは言いませんが、法的優遇措置は放棄すべき)と考えさせられます。
私も営業職場なので「そんなこと言ったって!」という世界で飯を食ってきたのですが「大手広告会社や宗教団体に無理難題を言われても収入を上げるためなら仕方ない」それでいいの?
新聞はここで踏ん張らないと新聞ではなくなるような気がしてならないのです。
以上終了です。
一番最初の方(大学に席をおいている方)の「じゃあ、どうするんだ」の解答がない、とのご指摘はもっともです。しかし、それが簡単に見つかるくらいなら、いくら新聞記者よりも出来の悪い営業マンであっても、どこかの誰かが、とっくの昔に見つけています。私は講演を依頼されたとき、いつも最初に言うのが、「これから話することは、解決策ではありません。それは現場の創意・工夫と努力によるしかないのです。料理のレシピのようなものを期待されても困ります」ということです。逃げるようですが、そうとしか言えません。
それから教壇に立つ人は、「すべてインターネットで事足りる。新聞など読まなくてもいい」と言わないでください。そういう先生に教えられた学生は、新聞社ならずとも採用しないでほしいと思います。
私のことを悲観的とか中には自虐的という人もいるのですが、私が伝えたいのは、以前にも一度申し上げたとおり、新聞社の広告営業が抱えている”のっぴきならない”事情です。その気持ちを共有してもらいたいといつも願っています。もの書きの集団と違って、広告人は実際の姿をなかなか外部(社内も含め)にもらさないものです。広告がここまで追い込まれながらほとんど放置されてきた最大の理由は、こういうところにあるのではとも思っております。
言い訳めきますが、広告で40年余り禄を食んできた者として、今もその仕事に携わっている後輩を貶めたり、希望を失くしたりさせるようなことはできません。「もう新聞広告は終わりだよ」と言うのは簡単ですが、絶対クチにする気はありません。新聞広告という「泥舟」に、遅れてつい乗り合わせてきた若い人をいたわりながら、ずっと一緒に考えていきたい、ということです。
今回与えていただいた貴重な機会が、少しでもそういう場になればと願っております。
森内豊四