
拡 材 −ある新聞拡販団″体験記―
著者:堀本和博・片上晴彦(泰流社)1,200円
1982年発行のこの書籍は、当時「世界日報」に勤める著者2人がスポーツ新聞の広告に掲載されている新聞拡張団″に潜入し、カード料(読者と契約した契約書の売買によって生じる手数料)のからくりや、拡材の使われ方など、新聞拡張団の内情を綴ったルポルタージュ。今でこそビール券や商品券の類が当たり前になってきているが、当時はライオン無リントップ、資生堂バスボン・シャンプーセット、アラレちゃんの絵入りコップセット…など、かなりリアルに紹介されている。
読売と朝日とでカード料や拡材のレベルの違いなど克明に記されてある。大分体を張った取材をしたのだろうと思う。にわか拡張員で感じたことが、自分で自分の首を絞めている新聞業界と一番損をしているのは長期購読者という結論を述べている。
第2部「発行本社の責任と問題」では、新聞が特殊指定を受けた背景や社団法人日本ABC協会が発足した経緯なども詳しく書かれている。
かつて新聞業界が、自らの販売の無法ぶりに自浄能力なしとして、公取委に駆け込んで法制化してもらったという経緯をこう述べている。
東京からスタートした読売新聞が大阪に進出し「大阪読売新聞」として発刊されたのは、1952年のことである。その進出は、1週間の間、大阪の150万世帯に無料投げ込みをすることではじまった。次に、1カ月130円という当時としては、超破格値の売込みを展開したのである。新聞業界は、この読売の拳に胆をつぶしたのである。さらに「大阪読売新聞」は1955年9月には、総額2億円の愛読者くじをはじめた。そのうえ「少年少女新聞」も無料で付録に付けたのである。このため新聞各社は、ついに大阪読売を独占禁止法違反で提訴することになったのである。もちろん、それまでも新聞販売業会は、激しい販売競争下にあった。そのため地方紙の間では、新聞を特殊指定商品にして乱売に歯止めをかけよう―という動きもあった。だが、大新聞はこれを「資本主義の原則である自由競争を抑圧するもの」と退けてきた。しかし、読売の拳にもうなりふり構っていられなかった。大阪読売の事件によって日本新聞協会の理事会は、法的措置も止むを得ないと決議した。これを受けて公取委が、1955年「新聞業における特定の不公正な取引方法」を指定し告示したのである。その後の新聞販売の遍歴や、1977年と1985年に新聞各社から発せられた「正常化宣言」のからくり(値上げ前の緩和策ではないかと指摘)などが記されている。ABC協会についても「押し紙」問題なども踏まえてかなり突っ込んだ問題点を提起している。
「公取委が特殊指定の枠をはめ、介入し始めたのは、新聞業界として恥ずかしいことだ」と当時をふり返って、元毎日新聞社販売局長の古池国雄氏は言う。新聞は、このときから販売手段として読者にお金や物を渡したり、無代紙を提供することを禁じられたハズである。だが、それは、どこまでもハズでしかなかったのである。なくなるハズの新聞の「不当販売」は、公取委が特殊指定に指定し、告示しても効き目はいっこうになかったからである。
新聞社が広告量をきめるときの目安は、一にも二にも発行部数である。この発行部数の統計をとって発表しているのが、1952年に発足した社団法人・日本ABC協会(新聞雑誌部数交査機構)である。部数は、ABCレポートとして定期的にまとめられている。「2兆円を超える広告産業にあって、広告媒体の量や質が不確かであるのはおかしなこと」というわけで、広告媒体の「量」にあたる発行部数をしっかり把握しよう、というものだった。1961年かたは、交査制が敷かれ、発行本社、各販売店にABC協会の職員が出向き、帳簿なども調べるようになった。だが、交査制から20年たった今、ABC協会のあり方にも、いろいろな疑問が投げかけられている。1982年4月には、衆議院の社会労働委員会で公明党の草川昭三議員が、ABCレポートの発表部数の公益性を問いただした。これに対して通産省の江崎格サービス産業室長は、発表されている部数は、各家庭に配達された新聞部数の合計ではなく「発行本社が販売店に売り渡した部数の統計である」と明言した。この質疑では、「押し紙」の実態までには触れなかったものの「(ABC)レポートが誤解を与えないよう昨年5月に指導した。競争をあおらないよう今後も指導していく」(江崎氏)ということになったのである。ABC協会のあり方については、業界内部でもいろいろな問題が出ている。
また、新聞販売労働者の販売正常化を目指した労働運動も紹介されている。1982年3月22日に東京神田にある総評会館で開かれた「第1回新聞正常化集会」を主催した、全国新聞販売労働組合連絡協議会(全販労)の取り組みや組織化が難しい新聞販売店の事情についても報告されている。
販売店が共販制の時代にあった全販連という新聞販売組合は、独自の力を持っていた。発行本社と対等に渡り合って手数料の値上げを勝ち取ったこともある。今でこそ新聞購読料の値上げは、発行本社の編集、販売経費の増大をもとに、その値上げ幅が算出され、販売店の手数料などは二の次だが、1948年には販売店独自の手数料値上げに成功している。
現在は発行本社による専売店政策の下で、とにかく生き抜くために資金のある店が拡材戦争への道を突っ走って行く構図だ。読者も「モノを持ってこなければ契約しない」と紙面内容ではなく、拡材の質量を求めるのが当たり前になっている。もはや洗剤は新聞販売店が持ってくるものという文化になりつつある。でも、それは新聞業界がこれまで行ってきたことのツケなのだ。再生のために何とかしなければならないのだが・・・