
明治新聞ものがたり
著者:片山隆康(大阪経済法科大学出版部)1,545円
新聞の歴史を辿ると、日本で「ニュース」が『商品』になったのは江戸時代初期からだということが分かる。「瓦版」と呼ばれた木版刷りの粗末な印刷物を売り子が街角で鐘を鳴らし“サワリ“を読み上げながら通行人に呼び掛けたことから「読売り瓦版」、「読売り」、「呼び売り」などと言われたようだ。この語源が現在の読売新聞のルーツなのかは不明だが、商品を陳列するだけでなく拡販する行為は現在の新聞拡張の走りなのだろう。
慶応から明治元年にかけて鳥羽伏見の衝突など混乱を迎える中、噂話だけが駆け巡っていた時期に新聞は大歓迎されるのだが、官軍寄りの主張をする新聞は新政府軍によって言論統制の対象となる。それこそ新聞の大本営加担は明治初期にも起こり、それから幾度も繰り返されるのだ。その中で「官許」を得た新聞が東京、大阪、京都を中心に各地で芽吹く。「横浜毎日新聞」(1870年12月創刊)、「新聞雑誌」(1871年5月)、「東京日日新聞」(1872年2月)、「郵便報知新聞」(1982年6月)。横浜毎日は神奈川県知事の井関盛止良が音頭を取り地元の人に発行させた。東京日日は娯楽小説作家の篠野伝平ら3人が資金を募って創刊にこぎ着ける。その後、政党機関紙化した大新聞は軒並みよろめくことになる。東京日日に至っては一貫した漸進主義、天皇主権論を唱え、政府の代弁者と見られたことにある。読者は目減り、朝日新聞が殴りこみをかけてきたなどから経営難が訪れる。1886年12月には発行人の福地源一郎の名前が紙面から消えるのだが、新聞経営者は経営難に見舞われたとき、主義に殉じて新聞を道連れにするか、主義に目をつぶって売れる新聞に変えるか、そのいずれかの選択に迫られるがどっちも嫌だとなると経営を明け渡すしかない。福地は自分の信念を貫いた言論人だったのかもしれないが、信念に生きようとする新聞経営者は「前垂れをつけなくては新聞経営は成り立たない」という流れが、平成の現在でもルール無視の乱売やワイドショー的な報道姿勢というように商業化していると言える。
この本は著者が毎日新聞社を1980年に退社し、大阪経済法科大学の客員教授の時代に書いたもので、37の文献を引用または参考にして書いてあるので明治の新聞(新聞社経営)の移り変わりが分かりやすく書いてある。あとがきにはこう記してある。「新聞はなんと人間に似ていることか」新聞史を振り返ってみてつくづくそう思う。時には感動を誘うまでに気高く理性的であった。時にはその言動は溜息を催すほどまでに動物的であった。雄々しく権威や時流に逆らったかと思うと、いじましく人気や評判を気にし、生きるために節を屈したことさえあった―。