東日本大震災からちょうど2週間が経ちました。
津波の被害を受けていない仙台市内では、今週から通常の生活へと戻りつつあります。といってもガソリンスタンドには長蛇の列が連なり、食料品を販売する全国展開する大型スーパーも不定期営業を余儀なくされています。3月11日以前の生活を取り戻すまでにはまだまだ時間が掛りそうです。
▽水道情報 http://bit.ly/gk6NdY
▽電気情報 http://bit.ly/gzaLIP
▽ガス情報 http://bit.ly/easFQs ※河北新報HPコルネットより
今だけ委員長の近況は、この2週間まともな入浴をしていないことに加え、花粉症とバイクでの移動で砂埃をかぶり続けたため顔面が赤くただれ始めました。余計に?不細工な面構えになってしまいました(涙)。
また、多くの仲間に元気づけられています。今週に入って、全国の新聞労働者(販売店の方からも)の仲間から電話をいただいています。「そろそろ落ち着いてきた頃だと思って連絡しました」と、それこそ北海道から沖縄まで多数いただきました。本当にありがとうございます。「がんばって!」というメッセージに勇気づけられています。
今回の震災ではソーシャルメディアの活用がだいぶ評価されているようです。安否確認や物資調達情報、義援金の集約に至るまで、その役割が既に生活インフラに欠かせない存在のように多くのメディアで論じられています。
▽震災で重みを増したソーシャルメディアの役割/藤代裕之(日本経済新聞3月19日)
http://s.nikkei.com/h16owv
今だけ委員長も停電中(4日間)はケータイとiPadでさまざまな情報を収集し、同級生やご近所同士の小さなコミュニティへの発信ツールとしてmixiやFacebookを活用していましたが、あまりレスポンスがないことに気づきました。ソーシャルメディアで情報を確認するより、友人からのダイレクトメールの方が「使える」というのです。今年44歳になる私の世代は2通り(ネット系に長けている人とそうではない人)に分かれると思います。「ネットはケータイのみ」という人は、多くのメディアで賛美されているようなソーシャルメディアの活用がされていないとあらためて感じました。当然、それより上の世代では、やはりマスメディアに頼る傾向が強いというか、特に停電中は新聞の存在がとても重宝がられました。
震災から約1週間、駅売店やコンビニが営業休止していることもあって市内中心部で新聞販売をしました。おそらく定期購読をしていないだろう若者が「きょうの新聞ください。情報量は朝刊と夕刊でどっちが多いですか?」と言って新聞を買っていく姿が印象的でした。だからといってその若者が定期購読者になってくれるのかどうか分かりませんが、新聞の役割や価値のようなものは理解していただけたのではないかと思います。
▽紙面よりあたたかく感じる記者のブログ考(ふらっと3月20日)
http://bit.ly/eZuq5q
震災後、住民同士が支え合う頼もしい取り組みも行われています。
学生ボランティアが高齢者や体の不自由な方への「買い物代行」を立ち上げました。ですが、ネットだけの告知ではその対象となる方々には伝わらない。何とかならないかということで、「新聞折込」による告知の相談を受けました。社内申請をしたところ二つ返事で「協力しろ」ということで、チラシの印刷と新聞折込の協力をしました。あまり大風呂敷を広げても学生ボランティアの数やエリアは限られているため、高齢者が多い世帯をセグメントしてそのエリア(区域)に折り込みました。翌日、ボランティア代表の方から連絡が入り、さっそく十数件の問い合わせがあったそうです。
震災による非常事態の時だから、紙や電波のマスメディアだけが万能だとも思いませんし、ネットを駆使したソーシャルメディアがあれば既存メディアはなくてもよいとも思えません。このような時代のなかで新聞社は、「紙でもネットでも」信頼される情報を送る(届ける)企業として生き残っていく必要があるのだと思います。そして、必ず人の手を介さなければならない「モノを運ぶ」という物流業務が、最も重要なのだと、被災地に居るとあらためてそう感じました。
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※河北新報社の了解を得て東日本大震災から1週間分の朝夕刊のイメージ画像をファイルアップしています。
地震発生から2週間。ガス復旧が遅れているため、私もこれまで体をふいて時々水で洗髪しています。最初の4〜5日はツラかったのですが、50歳になると新陳代謝が衰えているため、すぐに慣れました。シャワーの水を頭に注ぐと「カキ氷」を食べた時のようにキーンとなりますね。
青葉区一番町1丁目周辺の夕刊を配達しているおじさんを時々見かけます。通常はバイクですがガソリン不足の影響でしょうか、最近は自転車を使って頑張っているようですね。
人事異動で4月から青森市の本社が職場となるため、28日午後に仙台市を離れます。家族と一緒の生活に戻れるうれしさはあるのですが、被災地の現状を見ることなく宮城県を離れるのが残念です。
一番町アーケード街の角地には壁新聞のように張り出した河北新報。テーブルに置かれた書き込みノートに記された街行く人のコメントが印象的でした。
送別会も地震で中止となってしまい申し訳なく思っています。またすぐにお会いできるでしょうから、「さようなら」「お元気で」とは言いません。仙台へお越しの際は声をかけてください。ご家族の皆さま、東奥日報の仲間にもよろしくお伝えください。
お疲れさまでした。