最近、幼い命が狙われるケースが増えていますが、なんとも痛ましく無力な幼い子供が殺められることに憤りを感じます。
今回の藤里町小学1年生殺害事件では、メディアの過熱した報道体制もまたぞろ問題になっているようです。テレビ画面に映し出される「コラァ 写真撮るな」といってカメラマンに言い寄る容疑者の姿を見てどう感じられたでしょうか。6月6日付けの河北新報には容疑者の実家に100人の取材人が連日詰め掛けていたと記され、取材の「節度」申し合わせをした経過や藤里町教育委員会や容疑者自身が秋田県警犯罪被害者対策室や「放送倫理・番組向上機構(BPO)」に取材自粛の要請を行い、秋田報道懇話会でも「待機人員を制限」するなどの申し合わせがおこなわれたと、事件があった5月17日から6月4日の逮捕までの主な動きが報じられています。
以前、和歌山県で起きた毒物カレー事件で、起訴されている林真須美被告の時と同じような「報道陣による包囲網」という図式をメディアは繰り返しており、まさしく集団的過熱取材(メディアスクラム)そのものです。新聞協会編集委員会が2001年12月に発表した内容は@嫌がる当事者らを集団で強引に包囲した状態での取材は行うべきではないA通夜葬儀などの取材で、関係者の心情を踏みにじらないよう十分配慮するB近隣の交通や静穏を阻害しないよう留意する―などの順守を申し合わせたそうですが、「得ダネ」、「スクープ」を得るためにマスコミ各社はそんな申し合わせなど無視してしまうのでしょう。ルールを守らないマスコミの体質は販売だけではないようです。
仙台でも先月23日に起きた「小4女児マンション転落死」でも事件、事故の両面で捜査が進められているようですが、新聞記者による電話取材等について販売店にまでクレームが寄せられました。内容は夜の11時頃に「・・・の件ですが」と身辺状況など取材の電話をマンション住民にかけた模様で、その住民から販売店の従業員が集金で訪問した際に「何時に電話をかけてくるのだ!」と怒鳴り散らされたようです。新聞社への不満を抗議の電話まではかけない住民(読者)が、言いやすい販売店の従業員に文句を言う。そりゃ同じ看板を背負っているのだから読者からすれば「同じ会社の人」ですけれど、つらいですよねぇ。
記者の皆さんも一生懸命なのは分かりますが、深夜に電話取材をするって「常識」から外れているのではないでしょうか。
Y誌やA誌などでは,「一部新聞などがメディアスクラム防止(共同取材)に協力しなかった」とか,「週刊誌やフリージャーナリストは止められない」とか,言い訳的な記事が載っていましたが,責任転嫁もいいところだと思います。
責任転嫁も甚だしいですよね。言い訳ばっかりで読者や視聴者は程々あきれ果てるばかりです。
読者が新聞に求めていることは「ワイドショー的なニュース」よりももっと違った視点で社会的問題への切込みだと思うのですが…。国家財政(年金や国債の破綻)や行政の問題点を社会的問題として世論に訴える!何かおかしくなってます。
大柄な態度は自称インテリの最たるものです。イイ記事作って(書いて)いれば売れているかどうかなんて関係なし。読者の声を聞くことのない特殊な人達の集まりなのかもしれませんね。販売店にいると尚の事そう思います。フゥ〜。
いまさらですが、ジャーナリズム機能として公権力のチェックを自負している記者なのであれば、自分の主張を捻じ曲げないことも必要なのかも?(真意を問うためにですよ)
でも、市民に対しては「謝らない」「頭を下げない」という穿った姿勢では「ネタも取れない」堅物と言われてお終いのような気がします。
日テレアナウンサーの匿名報道といいメディア関係者の倫理観はどうなっていくのでしょうか。
新聞社ではありませんでしたが,学生の頃,永田町の民主党本部近く交差点の横断歩道上に,堂々と中継車を駐めていた(A社でした)ので,頭に来て警備の機動隊員(あの辺には制服が一杯います)に文句を言ったところ,「取り締まれないんですよ〜」といわれたことがあります。
新聞の役割として「事件や事故を広く伝える」という意味で定期購読者以外にも「号外」を発行しています。普通路上で何かを配る場合は所轄警察署に事前に「道路使用許可」を取るのですが、号外配布の場合は対象外なのだそうです。それはある意味理解もするのですが、いざ『取材』となると余計に特権をかざす体質があると思います。記者クラブ問題でもそうですよね。加盟していない社や記者は入れないという自らの特権にあぐらをかいている…そんなふうに思います。