COURRiER Japon(クーリエ・ジャポン)7月号
発行:講談社 780円
つくづく日々発行される週刊誌、月刊誌の数は多いなぁと感じるのですが、ネットで何げなく新聞ネタをググっていたら、「サヨナラ、新聞(ジャーナリズム)」を特集している雑誌を発見。
「クーリエ・ジャポン」。はじめて手にした月刊誌です。
これまでの“日本的”な新聞没落系の切り口ではなく、広義では新聞への応援歌といったところでしょうか。プリンストン大教授のポール・スター氏は「(新聞がなくなれば)これから誰が権力を見張るのか」と提起します。
―新聞は私たちの目となり、他のどのメディアよりも強力に国家を監視し、私企業の行き過ぎをチェックする、「市民社会の木鐸」ともいえる存在だった。なるほど、新聞がどのような使命を完璧に果たしてきたとはいいがたいだろう。しかし、いま懸念されているのは、新聞がもはやそうした使命をまったく果たせなくなるかもしれない、ということなのだ。
ネットの普及によって、「市民ジャーナリズム」が発展する可能性や言論と表現の自由がこれまで以上に確保されるかもしれないという指摘については、 ―ウェブでは先入見に基いた報道をひも付きのジャーナリズムが蔓延りやすいということもある。ウェブでは、プロフェッショナルな報道倫理に基づいて運営されているニュースサイトとブログの区別さえはっきりしない。危惧されるのは、行政や企業の腐敗だけではない。ジャーナリズム自体の腐敗も進行しかねないのだ。
(現時点ではとした上で)紙媒体を廃止し、ウェブに完全移行することは自殺行為だとするポール・スター氏。宅配の縮小(週3日へ)やNPOジャーナリズムなどが盛り込まれた論文は、そのほとんどの事例が米国のことではあるが、スムーズに読み進められる内容です。
文中に挿入されているコメントが、これまた膝を打ちます。
▼新聞がいまの規模と業務を維持していくとすれば、景気が回復してもほとんど利益を出せなくなると予測されている。
▼新聞社がジャーナリズムにお金を出せなくなり、ウェブも代替物を生み出せない場合、誰が公益を守るジャーナリズムにお金を出すのか?
▼新聞の後継者がウェブから登場するだろうと期待されてきたが、新聞が後継者の登場を見ずになくなってしまうことも充分ありうるようだ。
それを撤廃して報道を改善するなら紙媒体の存在意義も見直される。
記者クラブは廃止するのではなく、新聞や放送の一部マスコミしか出入りできないのが問題であって、そこへフリーランスや市民記者が取材活動ができるようにした方が、ジャーナリズム性の向上には寄与することだと思っています。
記者クラブ内での発表ものに頼る「なれ合い」はきちんと正すべきですが、国会や警察などにマスコミ(市民が)出入りできる既得権を「放棄」してしまうと、政治家や官僚は今以上に自分たちの都合のよいことしか伝えなくなり、発表すらしなくなることも留意する必要があると思います。