5月4日付、河北新報(あすを読む)にコロンビア大学教授のジェラルド・カーティスさんの「西松事件が映し出す政治、マスコミのゆがみ」というコラムが掲載されていました。
民主党代表の小沢一郎さんの公設秘書が政治資金規正法違反の疑いで逮捕、起訴されたことに関連して、小沢代表の説明責任、民主党の対応、検察の行動、マスコミの姿勢について問題点を指摘しています。
なかでも、マスコミの検察対応を批判し、検察がリークしたことだけを紙面化する記者クラブの制度のあり方について、廃止も検討すべきと意見を述べています。
(記事から引用)
この事件に関して、マスコミの取り上げ方、対応の仕方の問題も大きい。検察の記者クラブの記者たちは厳しい質問をせず、検察がリークしたことを事実として新聞に載せる。秘書を起訴して記者会見した検察は、カメラを入れてはいけないとか、記者クラブ以外のジャーナリストの参加を許さないなど、条件を付けたと聞いている。明らかに言論の自由を拘束する行動である。それなのにマスコミは大きな問題にしない。
記者クラブが検察の出先機関のように使われてはいけない。この事件が記者クラブ制度廃止も含め、マスコミ自身の構造改革を考える契機になればいいと思う。
元日本経済新聞論説主幹の水木楊氏が、新sあらたにすの新聞案内人というコラム「『記者クラブ』をどう考えるか」のなかで、記者クラブ制度のメリットとデメリットをあげながら持論を書かれています。
メリットとしては、個々ではなく集団で情報開示を求めるなどの力を発揮できる点や取材先(市民団体も含め)の窓口になっているなどをあげています。デメリットは以下の3項目。
@ろくな取材をせず、記者クラブに座っていても、発表記事が運ばれてくる。最近はどうなっているか必ずしも明るくないのですが、昔はそんな記者のことを「REPORTER」ではなく、ただモノ(情報)を運ぶ「PORTER」と呼んでいました。そういう記者が存在してしまう恐れがある。
A記者クラブが置かれている機関と価値観が一緒くたになり、客観的批判的な報道がしにくくなる場合がある。
B記者クラブに加盟する社が、自分達だけで特殊な関係を築き上げ、他者を排除する閉鎖性が生まれる。
記者クラブという特権にどっぷりつかってしまうと本来の役割がおざなりになってしまうということでしょうか。例えば政治家から食事をごちそうになり、お土産までもらう関係を構築することで生活者のためになるニュースソースが引き出せるのかなぁと疑問を感じます。記者自身も政治への過度な参画意識が芽生えてしまい、紙面という武器を使って自身の価値観を取材対象者へアピール(それが抑止力?)しているだけに過ぎないという疑問さえ抱いてしまいます。
記者クラブに出入りすることを許された企業人は、知らぬ間に閉鎖的な環境を自ら作りだし、そこで出来上がる同業者同士の仲間意識と取材対象者との持ちつ持たれつという妙な関係。水木氏が指摘するように一線を越えなければよいのかもしれませんが、内部から問題視するような声はやはりあがらないのでしょう。新聞を読まされる生活者はなんとなく蚊帳の外という感じがしてなりません。
新聞は何のために存在し、これからどんな役割を担っていくのだろうか…。
それぞれの新聞社には、社是なり経営理念があると思うのですが、昨今のような不況に陥ると「そんなの関係ねぇ」となってしまうのでしょうか。
新聞経営者は「従業員の賃金を守りたい」と言っていますが、実のところそこに手をつければ経営陣の既得権も奪われることを恐れて手をつけないというのが本音かもしれません。労働者としては、自分たちの生活を守るために経営チェックを怠らず、将来に向けて徹底した議論をすればよい。でも見誤ってはいけないのが「いま、一番優先させなければならないのが何なのか」ということではないでしょうか。
※一般的な企業の平均給与より低い状況にある新聞社があることも理解していますが、本文では平均より相当高い水準にある新聞社という存在に焦点を当てて書きました。
しんぶん販売の視点で
現今の部数減少と記者クラブ問題を考えると
あまり関係ないと思います
記者クラブがなければ新聞が隆盛になるなら
海外の新聞は日本よりいいはずです
こうした話に関わると
論点がずれて
部数増や業界改善といった
取り組むべきテーマがおろそかになる不安があります
よく、子供の犯罪があると
右翼は日教組や教育勅語を持ち出し
左翼は受験戦争や管理教育を持ち出しますが
どちらも古くからの自論を
何かの事件にかこつけて広めようとしているだけ
新聞の不調につけ込んで
同様に自論展開する人がいますが
ほとんど無関係です
惑わされないようにしてください
>現今の部数減少と記者クラブ問題を考えると
>あまり関係ないと思います
ご指摘の通りだと思います。
販売労働者が偉そうなこと言うな!といわれるのを覚悟で、新聞人の特権意識が市民(生活者)感覚とのずれを増長していることを思うがままに書きました。再販制度も含めたさまざまな特権にあぐらをかいてきたことが、時代の変化に対応できない「重た〜い組織」になっているように感じています。
特権を手放すのは正攻法ではないかもしれませんが、そのくらいやらないと…。そう思い始めています。