日曜夕刊がなくなった日
著者 田沢 新吉(講談社出版)1,500円
現在のような情報産業が発展していない時期、新聞は市民への情報伝達に欠かせないものだった。現在は日曜・祝日、そして年末年始にかけて休刊になる夕刊だが、日刊紙の夕刊は1965年頃までは日曜日も発行され、販売店従業員はそれこそ362日(当時の夕刊休刊日は元旦、こどもの日、秋分の日の3日間)朝も昼も新聞の配達をしていた。
新聞販売店を経営する高橋政次郎氏は、東京新聞販売同業組合の組合長(第22代目)に就任後、「次の世代の人たちのために」という方針を掲げ、週休制を求めて、全逓信労働組合の中央執行委員長宝樹文雄氏(当時は郵政も日曜配達廃止運動を展開していた)に協力を仰ぐ。新聞販売店のいわば経営者と労働組合が手を取り合い、日曜夕刊廃止運動を展開した。
日曜夕刊廃止については、新聞販売店従業員の葛藤もあった。「新聞というのは社会の公器。休まないところに新聞の意義があり、われわれは一般社会人とは違って特殊な仕事をしているという“誇り”を持って頑張らなければいけない」と言い聞かせて、当時の新聞奨学生なども学業との両立を寝る時間を割きながら配達業務に従事していた。しかし、時代は高度経済成長に後押しされ、週休制が浸透、日曜日には「本日休業」という札をぶらさげる商店が当たり前になってきた。そこで週休制を一挙に実現することは難しいから、せめて日曜日の夕刊ぐらいは休刊にして欲しいという運動が、東京組合から各地の新聞販売店へと拡大して行った。新聞協会や新聞社への要請行動の始まりである。
運動は大きく発展したのだが、読売新聞の当時業務局長だった務台氏は「読売新聞は絶対に日曜夕刊は廃止しない。理由はいろいろあるが、要するに夕刊を休めば新聞の使命遂行に支障をきたすからだ。読者にサービスを怠ったり、不便をかけることは社会の公器として通用しない。日曜夕刊を休まなければ、労基法に違反したり人道上の問題などというのは、私からいわせれば、むしろ逆で、代配によって週休制を完全に行うようにすることの方が、より大切なことだと思う」と表明している。全国紙では朝日新聞が1965年1月からとりあえず月2回(第1、第3日曜日)の夕刊を休刊し、休刊した分の増頁は当面行わないという社告を出した。この年から北海道、中日、西日本、東京も2月から隔週日曜夕刊の廃止を発表。信濃毎日、北日本、京都は1月から日曜夕刊全廃を決定する。同年4月からは新聞協会加盟社の40社が追随し日曜夕刊問題が決着したのである。読売新聞も「新聞業界全体のために大悟一番、2月から日曜夕刊を全廃」したのは言うまでもない。
各社の社告を見ると「雨の日も風の日も、新聞配達に従事する新聞少年や新聞販売店従業員に必要な休養を与えるために実施したものです…」という理由を掲げた。これまでの購読料改定の際も「販売店従業員のため云々」という決まり文句を新聞社は掲げるが、この日曜夕刊問題を起点にして、すべてにおいて「販売店のために」というフレーズが使われるようになったと感じる。
最後の章では10年間続いた日曜夕刊問題の総括が記され、なぜ10年もの歳月を費やしたかの理由に@各新聞社の増紙競争A個々の新聞社の社内事情B新聞販売店の団結不足C運動の進め方の抽劣さ―をあげている。新聞販売店従業員が「人間らしい生活を勝ち取ろう」と訴えた運動の歴史を後世につないで行かなければならない。
ところでいま、新聞離れに拍車が掛かっている中で、特に夕刊を購読しない世帯が増え続けている。紙面の内容だけではなく習慣性の問題だと感じる。その意味では日曜日の夕刊の復活も全く無視できないと感じている。販売店の休みは休刊日の問題ではなく、若干のゆとりある人員確保が叶えば週休2日も実現できるのである。