新聞
著者 千葉 雄次郎(有斐閣)260円
1955年初版発行の有斐閣ライブラリーシリーズ(正確には、らいぶらりい・しりいず)。
発行当時、新聞は現代社会に生きるための必需品であった時代、日常の出来事について知識の大部分は新聞によって与えられ、その知識にもとづいて日常の業務を行ったり、政治的な判断を下したりしている…というはしがきから始まる新聞の歴史を綴った1冊。
第1話は、新聞の自由の歴史。「新聞の自由は、世界中の国の憲法で保障されている」までに至った世界各国で新聞が果たした歴史が書かれている。第2話は、新聞の与えるもの。報道的機能、誘導的機能、娯楽的機能に触れている。第3話は、新聞をつくるもの。新聞社の体質、新聞記者の役割について。第4話は、新聞を利用するもの。国際政治の操作を検証し戦争時の報道体制、通信社、外電のあり方。また、新聞と世論として政治宣伝、経済利潤、権力と民衆に踏む込み「新聞の中立性」を求めている。第5章は、新聞を読むもの。如何に新聞が読まれているかについて、情報を欲する民衆が情報を得るばかりではなく新聞に込められた期待が感じられる。それだけ新聞は生活に密着していたし、新聞社もまた読者を向いていたのだろう。
販売問題にも第3章に「行きすぎの販売競争」で触れており、その一文を引用する。
新聞の紙面で競争するのはまだよい。販売競争が嵩じると、付録をつけたり、景品をつけたりの競争となる。これはちょっと考えてみてもわかるように、非常に金を食う。この経費は新聞をつくるための編集費とは別に、販売の経費として計上されている。新聞は外国からたくさんの電報を打ったり、記者が自動車や飛行機で方々へ出かけたり、大変な金がかかるだろうと読者は考えるが、新聞に景品や付録をつけたり、販売店を督励して、是が非でも新聞を売ろうとする努力のために費やされる金の方が、多い場合もある。しかし、この経費は、もともと、それによって読者をふやし利益を多くする目的のものだから、そのような大きな経費をつかっても効果がなければ、新聞社としては無意味である。ところが、各新聞者の販売競争がはげしくなると、採算を度外視した競争までがおこなわれる。しかし、そういう無茶な、また無意味な競争は、なが続きするわけはないから、付録や景品競争は、それをつけてまで競争しても、新聞社の利益にならないとすれば、読者がそれを欲すると否とに拘らずやめてしまう。先ごろ東京の各新聞が申し合わせてそのような販売競争を打ち切り、読者にそのことを声明したビラを新聞に折り込んで配ったのを思い出す人もあろう。
新聞も資本主義下の営利事業であるから、その生産品たる新聞を売り込むための努力がおこなわれるのは、企業として当然のことである。しかし、売ることだけが新聞発行の目的ではない。新聞にたずさわる人々は、社会の公器であることは知っているから、売ることだけが新聞の目的だとはいわない。販売という言葉すらさけて普及という言葉をつかっている新聞社すらある。いい新聞を「普及」することによって、新聞が利益することは当然みとめられてよい。しかし、新聞社がただもうけるためだけに、つくった新聞をむりやり「普及」されては、社会は新聞によって毒されるといわねばならない。
過去の反省が全く生かされていないのが新聞社の販売競争意識。付録つき、景品つきの販売はもうすでに新聞販売の文化となっている。この状態で「特殊指定を維持」と主張できるのか大いに疑問である。