2011年09月28日

常に町民目線で情報発信/亘理町災害ラジオ「FMあおぞら」

 東日本大震災では一時的かつ局地的にライフラインが寸断され、情報収集に困難を極めました。その際、大いに役立ったメディアとして新聞(宅配)やツイッターなどのソーシャルメディアに加え、ラジオが脚光を浴びました。震災以降、臨時災害FM局が立ち上がり、現在も地域住民の情報源として活躍しています。


東日本大震災の災害FM、長期放送へ
 東日本大震災の被災地で始まった臨時災害FM局の多くが免許の有効期間の2カ月を超えても放送を続ける見通しだ。岩手、宮城、福島、茨城の4県で31日現在、開局中の災害FMは18局。うち、すでに11局は設置から2カ月が過ぎた。過去に2カ月を超えて継続したのは3例だけで、東日本大震災ではかつてない規模の災害FMが長期の放送を続けることとなる。
 災害FMは市町村が免許を申請し、役場内や既存のコミュニティー放送局に設置する。総務省によると、大震災では3月11日以降、順次24局が設置され、廃止・休止となったのは6局だけだ。
 被災地では復旧作業が長期化して避難生活を続ける人も多く、細かな生活情報を伝える必要もあることから、今後、期限を迎えるFM局も多くが免許期間を延長して放送を継続する。
【臨時災害FM局】 阪神・淡路大震災を受け、1995年2月に初めて開設。住民の安否やガス、水道、道路の復旧状況など地域の災害関連情報を放送、防災無線の代わりに活用する自治体もある。コミュニティーFM局と違い、口頭での申請が可能。免許を取得できるのは自治体のみ。自治体が独自に開設するほか、地元のコミュニティーFM局に業務を委託するケースがある。
(神戸新聞 2011/05/31より一部抜粋)


FMあおぞ chirasi.jpg 先月14日、私のケータイに一本の電話が入りました。「ワンコイン応援メッセージのチラシをうちの局で紹介したいのですが…」というもので、同日に亘理郡亘理町と山元町へ約1万枚、各町役場の広報も兼ねたワンコイン応援メッセージのチラシを河北新報や朝日、読売などの各紙に折り込んだものを見られたのだとか。その電話の主が亘理町災害ラジオ「FMあおぞら」の方でした。
ワンコイン応援メッセージ第4弾(亘理、山元町編)を発行しました(8月11日付エントリー)
 「一度、訪れてみたい」と思っていたのですが、先週23日に亘理町の仮設住宅へ支援物資を届ける際に表敬訪問をさせていただきました。亘理町役場敷地内にあるプレハブ建ての放送局に入ると明るいスタッフの方々が出迎えてくれました。こんな元気な方々は発信する番組ならさぞ楽しい番組を発信さえているのだろうと伝わってきます。
FMあおぞら[2].JPG FMあおぞらは震災から13日後の3月24日に開局し、1日6回(8時、10時、12時、14時、16時、18時)亘理地区のさまざまな情報を伝えています。現在、番組編成やDJなど約15人のボランティアで運営し、常に町民目線で情報発信を行っています。最近は復興イベントが多く取材スタッフも大忙しなのだとか。対応していただいた放送担当総合サブチーフの西垣裕子さんは「毎朝8時の放送で河北新報の記事を何本か読ませていただいています」とのこと。番組で読まれた紙面スクラップがところ狭しと積まれてありました。


 これまでラジオから流れるニュースは、その多くが新聞などのマスメディアが発信したものを音声で伝えることを担ってきたように思います。でも被災した地域の臨時災害FM局はボランティアスタッフが方々を駆け回り、取材した新鮮な内容を発信するメディアとして地域住民の信頼と共感を得ていると感じます。震災前も高齢化が進んでいた被災地エリアでは、やはり新聞とラジオが最も必要とされたメディアだと強く感じています。
※ ※ ※
余談「左右に374mmの揺れに耐えた印刷センター」
印刷センター揺れ具合[1].jpg 私が勤める会社を含む某新聞社グループ会社の従業員を対象に「グループ会社見学ツアー」が先日行われ、参加してきました。折込会社や印刷センター、新聞販売店に広告会社5つの会社をまわって震災時の状況や現在の課題などの講話をそれぞれの担当者からうかがいました。
 特に関心を持ったのは、3・11大震災をもろともせず新聞発行を続けた河北新報印刷センターの免震建築工法の素晴らしさです。揺れを吸収するゴムが建物の土台を支えていると想像してください。それで3・11大震災時にはどの程度揺れたのかというと、左右に374mmも動いたのだそうです。あの巨大な建物が約40センチ近く揺れるとは…まさに想像を絶する地震だったということを改めて痛感しました。
   

posted by 今だけ委員長 at 06:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年09月23日

ラーメンがのびるまで週刊誌を読んだ/復興の書店

coverpage.jpg きのうの昼食時、勤務先の近くのとあるラーメン店で手にした週刊ポスト
 「どれどれ、袋とじの小向美奈子のエッチ写真でも…」とページをめくっていたら、「本に生かされた人々の記録 復興の書店(稲泉連)」という連載に目がとまりました。

復興の書店.jpg パラパラめくると河北新報社(河北出版センター)が発行した報道写真集「3・11大震災 巨大津波が襲った 発生から10日間 東北の記録」(1000円)が紹介されていました。6ページもの内容で、ほぼ実名で書かれているルポルタージュ。
 「おぉ〜すごいな、週刊誌でも真面目な写真集を取り上げるのか…」と思いながら、記録する使命感・義母を背負った中国人妻・みな泣きながら取材した―という小見出しにつられて読みはじめると、三陸新報が紙面で連載(22回)した「巨震・激流 その時記者は…」にその多くのスペースが割かれていました。これを読んだら三陸新報の写真集「巨震・激流」を買わずにいられないと感じるほど。そうこうしている間にラーメンが「汁なし」に変わっていたことは言うまでもありませんw

 震災から半年。被災地の多くの人たちは「忘れたい」と思っています。でも、この東日本大震災を被災地以外の人たちは「忘れないでほしい」と願っています。やはり体験者が書き残したり、語り継いでもらいたい…。忘れちゃいけないんですよ。

posted by 今だけ委員長 at 23:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍紹介

2011年09月10日

【告知】あすの「情熱大陸」は石巻日日新聞です!

 これは必見です。
 9月11日(日)23時から、TBS系列で放送する「情熱大陸」。以下番組公式サイトから引用します。


【番組史上初の“生中継”も】新聞が発行できない―「存亡の危機」に彼らが下した決断は?

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市にある社員28人の小さな地域新聞社。あの日、輪転機が止まり、津波は容赦なく記者たちに襲いかかった。『新聞が発行できない存亡の危機』に彼らが下した決断は“手書きの壁新聞”の発行だった。
 4000人近い死者・行方不明者を出しや石巻市で震災後6日間にわたり避難所などに張り出された壁新聞は地域住民にとっての重要な情報源となり、「これぞジャーナリズムの原点」としてアメリカの新聞博物館に永久保存されるなど国際的な注目も集めた。
 あれから半年、彼らは地元で何を伝え続けてきたのか?地域ジャーナリズムの使命とは一体?番組では14年の歴史上、初となる「生中継」を行い石巻日日新聞の「今」をお伝えする。
ナレーターの窪田等による「生ナレーション」にもご注目を。

http://bit.ly/oW3l5c

kose_k 「地元紙だからできること」これくらいの強みはない。記者の成長、地域への還元…どの言葉もホンモノが語るから映える。#jounetsu at 09/11 23:28
kose_k 今日付けの石巻日日新聞・特別号は買いですね。でも30分では短すぎるw #jounetsu at 09/11 23:25
kose_k 結局は読み手(読者)が必要とする情報を伝え続けるメディアだから存続し、無くなることが許されないのだと思う。ジャーナリストではなくローカリスト。重い言葉だ。#jounetsu at 09/11 23:14
kose_k 被災地の真実を伝え続ける石巻日日新聞の28人の従業員。地域密着という言葉を安易に使えないなぁと感じる。#jounetsu at 09/11 23:10
kose_k 『【告知】あすの「情熱大陸」は石巻日日新聞です!』今だけ委員長の独りごと|http://t.co/v4BKFTq at 09/10 18:00
 
posted by 今だけ委員長 at 18:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事ニュース

2011年09月09日

ワンコイン応援メッセージ第5弾は私の地元仙台市若林区と名取市閖上エリア

 多くの皆さまのご協力により、ワンコイン応援メッセージの第5弾を発行することができました。
 今回は私の地元仙台市若林区と名取市閖上の両エリアで約8000部を、震災から半年の節目となる9月11日の各紙朝刊へ折り込みます。
 名取編~1.JPG 名取編 2面[1].jpg
 個人的に取り組んでいるボランティア活動で時間が取れなかったこともあって、メッセージ内容(賛同者)はほぼ前回と同じとなりました。7月に仙台で行われた新聞労連定期大会では賛同者から「20口」という大口の支援もあったため、多くの方への呼びかけもできずじまいだったのですが、何とか発行することができました。

 これまで2面には行政情報を掲載していたのですが、「市政だより」などの配布も復活してきたことから地域でふんばっておられる個人やお店、ボランティア団体のPRへ使ってもらうようにしました。

 名取編では、名取市閖上エリアの震災後の写真集を自費出版されている小齋誠進さんを応援するため、写真集の販売促進に使いました。
写真集の受付は、「小齋誠進のブログ「イーゴンの徒然
もしくは、印刷センター022(384)1335まで。
 さらに仙台市若林区編は大規模な仮設住宅が多いこともあって、ふんばろう東日本支援プロジェクトのPRチラシを印刷しました。
 仙台市~1.JPG 仙台市若林区編 2面[1].jpg
 それぞれのエリアに合わせて、少しずつ地域復興的なお手伝いもできるようにワンコイン応援メッセージプロジェクトを育てていきたいと思っています。

【ワンコイン応援メッセージプロジェクトの趣旨】
 3・11大震災で津波の被害を受けた販売店の支援を目的に、ワンコインで被災地へ応援メッセージを(チラシとして)送るプロジェクトに取り組んでいます。ツイッターなどのソーシャルメディアを活用して、以下のメッセージを送り協力要請。賛同者から募ったワンコインを原資に被災地への応援メッセージチラシを制作し(メッセージは賛同者がメールで送る)、販売店へ折込手数料を支払うという支援モデルです。

 被災した新聞販売店の復興支援に皆様のお力を貸してください。被災地への応援メッセージをチラシ調に印刷し、新聞折込を発注する仕組みです。販売店は折込作業をすることで手数料を得ることになります。メッセージはツイッターの特徴を生かし140文字、アイコンとアカウントも表記します。
 賛同いただける方は500円を指定口座へ振込、応援メッセージをメールで送ってください。支援先は津波で壊滅的な被害を受けた新聞販売店。毎月11日の新聞へ折り込まれるようふんばります。


 今後もできるだけ多く、津波被害を受けた販売店で実施したいと思っています。どこまでやれるかわかりませんが、自分ができることをカタチにしていきたいと思います。継続して新聞販売店支援に取り組んでいきたいと考えています。
 ご賛同いただける方はkoseki.k@gmail.comへご連絡ください。

2011年09月06日

「ずっと読み続けてきた新聞」を届けてやりたいが…

 3・11大震災から半年を迎えようとしています。
 被災者の生活は避難所から仮設住宅へと移り、自立した「個」の生活がはじまっています。「できるだけ自分が生まれ育った町の近くに住みたい」という被災者の思いは、長年住み続けてきた郷土への愛着があってこそ。見知らぬ土地へ移ることの孤立は何とか避けたいとは、誰しもが思うことです。
 でも、東京電力・福島第一原発周辺の「立入禁止区域」、「避難指定区域」に住んでいた方々は県内外へ避難し、見知らぬ土地で生活せざるを得ない状況です。


 先日、こんな話題がありました。福島県の地元紙・福島民友新聞が読売系販売店で購読できるという販促チラシが読売新聞などに折り込まれた―というもの。チラシにはこう書かれてありました。


「災害に負けず 頑張ろうふくしま」
宮城県内でも毎朝、当日の福島民友新聞がお読みいただけます!
 
東日本大震災で避難生活を余儀なくされている福島県民の皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。
宮城県読売会は、宮城県内に避難されている皆さまに「ふるさと ふくしま」の情報をいち早くお届けするため、宮城県内の読売センター(YC)から、福島県内と同様に福島民友新聞をお届けすることになりました。
最寄りの読売センターからお届します。
福島民友新聞の購読料 月ぎめ2,905円

 福島県で発行されている新聞は地域紙などを含めると相当数ありますが、代表的な地元紙は福島民友新聞と福島民報です。民友は読売系、民報は毎日系の資本がそれぞれ入った新聞社で、民友は専売店を持たずに読売や朝日の販売店と販売契約を結んでいます。
 昭和30年後半の高度成長期(新聞各社も部数拡大に躍起になっていた頃)には、民友、民報とも隣接する宮城県での販売攻勢を強め、ブロック紙さながらの展開をしていました。当時の様子はこのように残されています。


福島民友の宮城進出
 昭和36年は好況のうちに開けた。しかし、新聞界の競争は激しさを加え、激戦は宮城県内に及ぼうとする緊張の年頭だった。うわさのあった福島民友新聞の宮城進出が、現実のものになろうとしていたからである。
 この年5月25日、「福島民友」は題号を「民友新聞」と改め、宮城県向けの「民友新聞・宮城」の発行を始めた。仙台市の斎藤報恩館に宮城本社を置き、宮城県内に支局や通信部を設けて、夕刊1面を地元ニュースによる社会面にするなどの紙面構成で、宮城県民紙とうたった。この事態に河北新報社は、取材陣を増強し、紙面改善と製作機械化、販売面の強化などで対応した。当時の社報には「隣県紙が宮城県民紙を掲げて発刊に踏み切った。相呼応して同じ県の別の新聞も宮城県内の拡張に本腰を入れてきた」として、「優秀な計画性と果敢な闘士で、新しい波を乗り切ろう」と記している。
 民友進出に先駆けて、本紙は3月30日から朝刊を2ページ増やして12ページとし、朝夕刊セット購読料を据え置き、4月1日から朝刊1面に「きょうの主な記事」の欄を設けた。続いて、民友発刊前日の5月24日夕刊からは、購読料据え置きのまま夕刊を2ページ増の6ページとし、県民版や暮らしと趣味のページを新設した。さらに10月の紙面改善で、宮城県版に仙南版を新設して、仙北、仙南の三版制とし、経済・株式欄を拡充するとともに、深夜ニュース収容のため特別の降版時間を設けた。
 
 「民友新聞・宮城」は40年5月になって夕刊発行をやめ、45年3月31日付を最後に廃刊して、4月1日から題号が「福島民友」に戻った。この間10年、本紙の発行部数は変わりなく伸び続け、販売収入の前年比伸び率の平均は10パーセントを示した。本社各部門の総力を結集した結果だった。(河北仙販50年史より一部引用)

 当時は、新聞社間の販売攻勢により敵対する構図が伝わってきますが、今はまったく違った状況にあります。「福島民友がまた宮城県へまた販売攻勢をかけてきた」とは誰も思っていないでしょう。逆に「うちの販売店でも取り扱って、福島から避難している世帯へ届けてやりたい」と感じている販売店主も少なくないと思います。

 新聞社は「紙」を発行することによる販売収入(販売店が買う新聞代金)と広告収入が経営基盤を支えています。販売店も同じです。ネットビジネスの盛隆が言われていますが、まだまだ「紙」を失くして現状の企業活動を維持することは不可能なのです。
 そこにきて今回の大震災。福島県で発行する新聞社のほとんどが、福島第一原発事故の影響で読者の多くが県外避難などで部数を大幅に減らしました。震災直後の4月のABC部数では、福島民報235,452部(前月▲64,953部、前年▲65,052部)福島民友180,697部(前月▲19,559部、前年▲20,360部)。ある程度の部数回復はされていると思われますが、厳しい状況であることに変わりはありません。

 全国紙と違い輪転機の配置地域や輸送の問題によって、県外へ当日の新聞をいわゆる朝刊の配達時間に届けることは難しのですが、新聞社間で協力して避難されている方へ「ずっと読み続けてきた新聞」を届ける仕組みを作れないものかと考えています。この辺の話はネットを活用してということにしかならないのかなぁ…。
※郵送新聞は1日遅れの配達となり、第三種郵便扱いでも配達料が結構かさむため、個人宅での購読はかなり難しいようです。

posted by 今だけ委員長 at 23:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | きょうの喜怒哀楽
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