けわしくても厳しくても−ある新聞奨学生の過労死裁判の闘い−
著者 読売育英奨学生上村修一君の過労死裁判を支援する会
上村事件とは 上村修一君は高校時代から水泳部の副キャプテンを務め、持久走を得意とする身長184センチ、体重70キロの体格と健康に恵まれた青年でした。スキューバダイビングのインストラクターになろうと志して、1990年4月に「学業と就業の両立」を謳った「読売新聞育英奨学生」に応募、採用されて東京調布市の新聞販売店に配属されました。
新聞販売店での仕事は深夜3時に出勤して6時過ぎまで朝刊を配達、朝食をとってから渋谷の日本レジャー専門学校へ通学、午後2時ごろに下校して3時から約2時間夕刊配達業務に従事、夜は夕食後から翌日の朝刊折込チラシの準備作業に携わっていました。また、月末から月初めの半月間は読者宅への集金業務に従事、留守宅などへの再三の訪問は休日や深夜に及び1日の睡眠時間は4〜5時間程度でした。
そして就労後半年たった10月頃から体重の減少、咳が出るなどの不調が目立ってきました。日々の生活が新聞奨学生として拘束をされた状態の下で「応募要綱」で示された募集条件と違う過酷な業務を訴えるすべもなく、退職を考えましたが、新聞奨学生を途中で辞めると奨学金(貸与された入学金と授業料)を全額、一括して返済しなければなりません。そのために、せめて年度末の3月までは我慢しなければと働き続けて、ついに上京から8カ月目の12月4日に勤務中に倒れたのです。
行政解剖の結果「一過性の高血圧による小脳出血」による死亡と診断。その原因は「新聞配達、集金業務による心身の疲労、ストレスによるもの」との判断が下されました。
事件後、ご両親(上村二活さん・カズ子さん)は、読売新聞社と奨学会に対して、修一君の死亡の原因について問い合わせたり、92年には弁護士と同行して読売新聞社を訪ねましたが、対応はなく、修一君が亡くなって3年目にあたる93年12月3日に東京地方裁判所に損害賠償を求めて提訴。運動が始まったものです。
運動の経過
この書(非売品)は、1999年7月27日、上村君過労死裁判闘争の和解が成立(事件発生から9年間)するまでの期間、裁判を支援する会結成から6年間の活動を綴った記録です。
「最年少の過労死」として報じられたこの事件は社会的にも注目された事件。一人の若者の死が提起した問題は、単に健康管理や業務のあり方だけでなく、新聞発行本社の体質や新聞産業の過当競争体質、さらに新聞販売労働者の労働条件の問題にもスポットがあてられ、社会的な問題となりました。また、この闘いを通じて、新聞奨学生の電話110番相談の開設や裁判の傍聴、読売新聞社前でのビラまきや支援する会の拡大などで、この運動に賛同する団体は1400を超えました。
今だけ委員長もこの裁判闘争の支援団体として運動に参加しました。もう二度とこのような無惨な事件が起きないように販売労働者、新聞奨学生に問題を底辺から改善していく取り組みを行っています。
posted by 今だけ委員長 at 16:05
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